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 夢の中で目覚ましが鳴っていない事に気が付き、慌てて弾けるような勢いでベッドから起き上がる。時計を見ると時刻は午前八時半。どう考えても仕事には遅刻の時間である。しかし、時計の数字のすぐ横に表示されている土曜日の文字が、慌てる俺を一瞬で冷静に戻した。今日は元々仕事は休みである。遅刻も何もありはしないのだ。
 慌てて起きて損をした。せっかくの休みだからもう少し寝ようかと思ったが、慌てたせいですっかり目が覚めてしまっていた。これでは今更二度寝もない。俺は苦笑いしつつベッドを降りた。
 トイレに寄り、洗面所で顔を洗い、髪や髭はそのままでリビングへ入る。リビングは照明が消えていて誰もいなかった。キッチンを覗いて見ても誰もいない。俺は首を傾げつつ、冷蔵庫を開けて冷たい麦茶を取り出した。量はしっかりと上限まで入っている。昨夜寝る前は半分も残っていなかったはずだ。
「キョウコ? いないのか?」
 麦茶を飲んで片付けた後、今度は普段の話し声よりも大きな声で呼んでみる。けれど、やはりキョウコの返答はない。少しだけ温度の上がった冷蔵庫が小さく振動しているだけである。
 今日はキョウコも仕事は休みだったはず。それなのに、こんな時間に何処へ行ったのだろうか。
 ダイニングテーブルには朝食が用意されていた。ラップについた水滴の細かさからして、まだ作ってからさほど時間が経っていないようだ。出掛けて行ったのはつい先程のようだが、仕事では遅い時間だし遊びなら少し早すぎる。
 本当にどうしたのだろうか。
 キョウコの携帯にかけてみようと思い、自室の携帯を取りに行こうとした時だった。ふと目に入った、ローテーブルの上の女性向け週刊誌、表紙には近郊の話題の店や施設の特集の事が書かれている。確か昨夜、その事で小一時間ほどキョウコとあれこれ見ていたのだった。以前のように、遠出する旅行では熱が出ると大変だから、一泊か日帰りでも楽しめるような所がいい。そんな内容だったと思う。
「あっ!」
 直後、俺は一際大きな声を上げた。
 そう、確かそもそもの話題の切っ掛けは、キョウコが今日同窓会で此処へ行くと言っていたことだった。それで、先に美容室へ寄るから午前中には出る予定だったが、昨夜になって店側の都合で予約の時間が早まってしまったのだ。だから、今キョウコがいないのは当然の事なのである。
 何とか、思い出せた。
 ちょっとした度忘れであるはずが、俺は強く安堵しホッと胸を撫で下ろした。
 俺のここ最近の物忘れは酷いと思う。いや、過去の古い記憶を全く思い出せないのは、むしろ異常だ。その古い記憶の範囲がどこまで広まるのか、そういう懸念あるだけに、ちょっとした物忘れにも神経質になってしまう。これはこれで、改めてちゃんと治療をお願いしなければ。若年性の痴呆症も薬で簡単に治るのだが、症状が進みすぎては治らなくなるのだから。
 二杯目であることを確認しながらもう一度麦茶を飲み、キョウコが用意した朝食を食べ始める。焼き魚は赤魚だろうか。骨が特徴的なので食べるにはコツがあるのだけれど、俺は何となくそれが出来ていて、さほど困りもせずにほぐして食べていく。箸の持ち方にしてもそうだ。正しい持ち方は人差し指と中指で重心を取り、親指は添えるだけである。茶碗を持つときの腕の位置や箸の使い方、どれも何時何処で誰に習ったのか覚えていないが、何が正しくて何がいけないかはしっかりと覚えている。
 これらの記憶は、本来連続性が無ければいけない。誰かに教えられたのだから、良し悪しが分かるのだ。にも関わらず、俺の記憶は偏りが生じている。古い記憶、要は普段思い出したりしない事が片っ端から消えていて思い出せない。思い出せるのは全て、日常に繋がっていたりごく最近のものばかりだ。古い事を忘れるのは誰にでもあるし当然の生理だが、完全に消えるのはどう考えても普通ではない。古い荷物を誰かに勝手に捨てられるような気分だ。この危機感を、どうにもうまく伝えられないのがもどかしくてならない。ただの物忘れではないのではないか。そう不安に思う。
 一度、自分がどれだけ忘れているのか洗い出してみるべきか。けれど、身の毛もよだつ結果が待ち受けてそうで、とても前向きになる勇気は出て来なかった。
 朝食を終え、出来た洗い物は自分で片付ける。料理と違って皿洗いはさほど細かな気配りが必要ではなく、俺でも気楽に簡単に出来る。全ては研究し尽くされた洗剤とスポンジの性能のおかげである。たった一人分の洗い物も洗剤とスポンジで軽く撫でるだけで良く、水道の蓋を開けて僅か数分で片付いてしまう。きっちりと水洗いをして洗剤を流した皿や器は水切りの上に並べ、後は洗剤の副作用で突っ張った指を揉みながらリビングのソファーへ向かい腰を下ろした。
 皿洗いは、特にキョウコが忙しかったり留守でもなければ、滅多に俺がやる事は無い。だけど、皿の洗い方はどういう訳か知っている。社会人になって独立し、必要に迫られて自然と覚えてしまったにしては、スポンジの使い方や汚れの磨き方の知識が学術論のように頭の隅にしっかりと存在している。俺は昔、どこの誰かに皿の洗い方を習ったのだろう。小学生ぐらいの時に、家庭科の授業でそういう実習をやった事があったような気もする。だけど、どういった経緯で身につけたのか、その具体的な風景は浮かんで来ない。
 最近の記憶は、単に頻繁に思い出すから覚えているだけなのだろうか。傾向として考えれば、そういう例も考えつかない訳ではない。だけど、それならば今からある一定期間に使われなかった記憶は、即座に綺麗に消えてしまう事になる。それが自分の名前の漢字だったとしても例外ではない。
 もしもその理屈が正しかったのだとしたら。俺はしばらく自分の名前を書かないだけで、自分の名前の漢字も忘れてしまう事になる。いやそもそも、既にきちんと書けなくなっているのではないかと不安で仕方ない。実際、そんな事はあるはずはないとは思う。だけど、本当に明日、自分の名前が書けなくなってしまっていたら。きっと噂も騒ぎも今とは比べ物にならなくなっているだろう。