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 コーヒーを丁度飲み終えた頃、相手方から連絡が入り、担当医がエレベーターの方へ出迎えに行った。一体どのような人物がやって来るのか。そう思いながら待っていると、程なく入って来たのは車椅子に乗った老婦人と、それを押す老紳士だった。おそらく夫婦と思われる二人で、どちらも穏やかで温和な雰囲気がある。
「どうも、お待たせしてしまって申し訳ありません。何分体がこんなでねえ」
 老婦人は柔らかな微笑を浮かべながら、車椅子のままそっと頭を下げる。後ろの老紳士もそれに続いた。
「いえ、我々も先ほど来たばかりですから」
「あら、そうでしたの。本当、申し訳ありませんねえ」
 穏やかな二人の調子に、実に好感が持てる付き合い易い人物である印象を受ける。
「ところで、先生。今日はどんな治療だったかしら?」
「違いますよ、アクツさん。今日は昼食会ですよ」
「あらまあ、そうでしたの。初耳ですわ」
 担当医にそう微笑む老婦人。担当医はいつもの人の良さそうな笑みを浮かべるものの、背後の老紳士は何故か気まずそうな表情でこちらへ視線を向ける。その表情に思わず無言で会釈を返す。
「ほら、お前。先に御挨拶をしないか。すみません、私はアクツと申します」
「あらあら、ごめんなさい。それにしても随分お若い方ですのね。子供くらい歳が離れていませんか」
「まさか、そこまででもありませんよ。ところで、アクツさんと仰いましたね。奇遇ですね、実は私も同じ名字なんですよ。アクツイサオと申します」
「まあ、本当に? 本当、奇遇ですこと」
 そう自分の事のように微笑む老婦人、アクツ夫人は、実に無邪気に振る舞うものだと思った。外見は年相応の楚々としたものだが、表情の屈託のなさはまるで十代の学生のようにすら思える。そして、そんな彼女の様子には決まってアクツ氏が気難しい表情をする。苛立ちでも不安でもない、一言では言い表しにくい不思議な構図だ。
「ではそろそろ参りましょうか。予約の時間ですし。何、すぐ近くですから、のんびりと歩いて行きましょう」
「あら、来たばかりですのに。どちらに参りますの?」
「通り一つ越えた、すぐそこですよ。私の知り合いがやっているお店があるんです」
「まあ、先生のお知り合いですか。楽しみですこと。ところで先生、今日は白衣をお召しではありませんのね」
「何せ休診日ですから」
「まあそうでしたの。お邪魔じゃなかったかしら、私達」
「いえいえ、お気にされる事ではありませんよ」
 アクツ夫妻との会話もそこそこに、五人揃ってクリニックから目的の店へ出発する。場所はクリニックから歩いて五分もかからない距離で、もう少し高層ビルが無ければ見えるほどだという。しかし、アクツ夫妻は車椅子のため歩が速められず、俺達は歩く速さを夫妻に合わせながら進んだ。その道中、アクツ夫人はあれこれ指差しながら、あれは何なのかとしきりに質問を繰り返した。それらは別段何の事はないものばかりなのに、矢鱈に物珍しがる姿がとても不思議だった。彼女が田舎から今日のためわざわざやって来たのなら分かるのだが、確か夫妻は同じこの界隈に住んでいるはずだからだ。
「さあ、こちらです。今日は貸切にしていますから、どうぞ遠慮無く」
 担当医の言った通りさほど時間もかからず到着した予約の店は、白い平面的な壁にシンプルな原色の装飾をそっと施した、周囲と比べて背の低い印象の建物だった。入り口のドアが堅い木の観音開きで、何となく教会のそれを連想させる。そこを開けて店内へ入ると、内装は扉と同じ木材を使っているらしい薄い暖色系の作りで、窓ガラスが大きいため陽の光が多く入ってきて非常に明るくほのかに暖かかった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
 同時に奥からやって来て出迎えたのは、コックコート姿の女性だった。年齢は俺と同じくらいだろうか。女性にしてはやや背が高く見える。
「紹介します。こちらが店長のハヤセさんです」
「初めまして、ハヤセです。店長と言っても、他に従業員は二人しかいないだけですから。今日は私だけですし。さあ、どうぞ。こちらのお席へ」
 案内されたのは店内の真ん中にある大きなテーブル席だった。見た目は古そうな木製だったが、木自体の手触りは非常に硬く頑丈そうな作りである。椅子も同じ木で作られているが、こちらは背もたれを微妙にたわませているためか、さほど硬さを感じさせなかった。純朴な雰囲気の家具だと思う。
「お料理の前に、食前酒でも如何ですか? 今日は良い地酒が入っていますよ」
「じゃあそれを戴きましょうか。皆さんは日本酒は大丈夫ですか?」
 店長のハヤセさんが一度奥へ向かい、間もなく大きめの徳利と人数分のお猪口を持って戻って来た。ハヤセさんは各々にお猪口に酒を注ぎ回る。彼女が勧めるという日本酒は、お猪口に注いで空気に触れただけで驚くほど芳醇な香りを放った。特別日本酒が好きという訳ではないのだが、こればかりは急に強く食指が動いた。
「まあ、良い香り。これはどちらのお酒かしら?」
「京都のものです。当店は京料理にこだわった店ですから」
「あら、そうでしたの。私、てっきりフランスとかのお料理かと思ってましたわ」
 俺もアクツ夫人と同じ事を考えていた。店の外観や内装、そしてハヤセさんのコックコートから京料理というのは意外である。これまでジャンルとして京料理というものは口にした事が無いだけに、これから運ばれてくるであろう料理に期待が膨らんだ。
「それではごゆっくり」
 全員にお酒が行き渡った所でハヤセさんが厨房へと戻る。今日は一人で店を回すのだから、随分と忙しそうに見える。
「では、ひとまず乾杯といたしましょうか。何か挨拶でも?」
「いや、堅苦しいのは抜きにしましょうよ」
「それでは、そういう事で。では皆さん、乾杯」
 乾杯の掛け声の後、俺はお猪口の淵に口を当ててそっと一口飲んだ。口の中に広がる冷たさは予想していたえぐ味を出さず、口の中の温度で温められながら溶けるように入っていった。舌には微かに甘さと米麹らしき香りが残る。日本酒の事は良く分からないが、とりあえず良い酒というのは何となく舌で分かる。確かにこういった日本酒ならば、普段縁のない人でも勧められるだろう。
「美味しいお酒ですこと。私、日本酒なんて久しぶり。さあ、これからどのようなお料理が来るのかしら。楽しみだわ。洋食ですの?」
「いや、京料理だそうだよ。先ほど店長さんが仰っしゃっていたじゃないか」
「まあ、お店は洋風なのに。でも、私は和食の方が好きなの」
「うん、そうだね」
 この日本酒に感激しているらしいアクツ夫人だったが、その言動にアクツ氏は再びあの気難しそうな表情を浮かべている。そっと傍らのキョウコに視線を向けてみると、同じように複雑な表情を見せていた。
 俺もまた、あの二人の会話には違和感を覚える。どうも前後の繋がりがなっていないような印象である。もしかしてアクツ夫人は、記憶に問題があるのだろうか?