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 アクツ夫妻とはクリニックで別れ、俺達は買い物をした後に帰宅した。時刻はまだ夕方には早い時刻で、キョウコは素早く冷蔵庫の整理を済ませると、リビングで丁度始まったいつも観ている番組を見始めた。こうなると小一時間は梃子でも動かないのだが、今日はその方が都合が良い。俺は一人で自室に入ると、パソコンの電源を立ち上げた。
 財布の中に忍ばせておいた、アクツ夫人から頂いた薬をテーブルの上にそっと出す。外見は良くあるアルミ紙の密閉包装で、半透明部分からは薄い青と白のカプセルの姿が見える。平面の部分には青の塗料で品名とメーカー名とロゴがプリントされている。品名はコルチレート、メーカーは新日本ベーシックグループ、俺も仕事で良く目にする製薬会社だ。しかし、コルチレートという薬名には聞き覚えが無い。おそらく、そう頻繁に処方されるようなものではない特殊な薬だからだろう。
 パソコンが立ち上がると、早速ブラウザを起動しネットに繋ぐ。薬剤師免許を持つと、様々な薬剤に関する情報を調べることが出来る専用サイトのアクセス権が発行される。当然コルチレートというこの薬の情報もあるはずである。
 ユーザー認証の後、サイトのトップ画面よりコルチレートを入力し検索を行う。僅かなブランクの後に検索結果が画面に表示される。薬の写真を確認すると、手元の実物と同じものである事が分かる。品名も同じだったが、メーカーは製造元とライセンス元が異なっていた。何か特別な経緯があった薬のようである。もっとも、そういった諸処の権利の移動はさほど珍しい事ではない。
 では、これは一体どういった薬なのだろうか。まずは概要から読み始める。が、その直後に俺は息を飲む事になった。コルチレートの種類は、免疫抑制剤とあったからである。
「これは……」
 免疫抑制剤がどうして?
 勤め先では全く扱っていないという訳でもなく、どういった場合に処方されるものかも知っている。しかし、とても自分には必要と思えない種類の薬である。単なる発熱に免疫抑制剤が効果があるというのだろうか。ともかく、更にデータの続きを読む。
 コルチレートとは、元々臓器移植手術患者へ投与するために開発された薬剤である。従来の免疫抑制剤には強い副作用の問題があったが、この薬は飛躍的に副作用が軽減されているのが特徴となっている。しかしその反面、免疫抑制剤としての効果が弱く、用途は徐々に術後の常飲薬にシフト、やがて人工臓器やナノマシン化の普及に伴い主流から外れていった。
 要するに、時代遅れの免疫抑制剤という事だが、どうしてこれがアクツ夫人の発熱に効くのだろうか。何か移植手術を受けたためとも考えられるが、生体臓器の移植手術など日本では何十年も行われていない。移植と言えば、拒絶反応のない人工臓器が主流である。こんな免疫抑制剤など飲む理由がない。
 俺とアクツ夫人との共通点は、内臓の大半がナノマシン化している事と、原因不明の発熱の習慣がある事、そして僅かな記憶障害だ。アクツ夫人はコルチレートの服用により発熱の習慣が収まっている。これは事実のようだ。ならば俺も服用すれば発熱に効能があるのだろうか。
 だが、疑問はある。免疫抑制剤が、どうしてこの原因不明の発熱に効くのか。薬価学的な理由だ。仮に、俺の発熱も免疫抑制剤によって抑えられたなら、発熱の習慣は体の中で何らかの拒絶反応が起こっているのが原因になる。しかし、それは少々考え難い。もしそうなら、既にクリニックの検査で判明しているはずである。血液に分かりやすい炎症反応が出るのだから、担当医が見逃すはずはない。
 どうにも辻褄が合わない。どうして免疫抑制剤が発熱に効くのか。そもそもアクツ夫人の発熱は、免疫障害か何かが原因だったのだろうか。それならばまだ納得は出来るのだが。
 サイトを閉じ、しばし実物のコルチレートを手のひらに乗せて眺める。もしもいつもの発熱が起こったなら、これを飲めば熱が下がるのだろうか。熱は思い通りに出せないが、いずれは関係なく出る。その時に試す事は出来るが、それで熱が本当に下がったなら。まずは担当医から疑うような事になる。とても厄介で複雑な状況だ。
 ひとまず、これ以上考えても仕方がない。今は、いつ熱が出てもいいように備えるしかないだろう。それに、あまり考え込みすぎると、また前のようにヒステリーを起こしかねない。
 アクツ夫人から頂いたコルチレートは全部で六錠。それを三錠ずつに切り分け、片方はデスクの引き出しに、もう片方を財布の中へ入れる。これで何時どこで発熱が起こっても、すぐに薬を服用する事が出来る。
 そこで、一つ問題がある。この薬の事を、キョウコに話すかどうかだ。普通に考えたら、別にキョウコに隠すような事ではないだろう。だが、薬剤師という身分で人から貰った薬を、それも常々一生の問題だと言っている発熱のために飲むというのは、どうにも知られるのはバツが悪い。ここはやはり黙っておいた方が良いだろう。見栄を張るのはそんなに悪い事ではないし、しかもあの薬はどうせ大した副作用はない。効いたら効いたで、効かなければそれで、内々にしてしまうのが心配もかけず済むだろう。