BACK

 いずれ熱は出て来るだろうと思っていたのだが、その予想に反して、どういう訳かあれ以来ぱったりと発熱は起こらなくなってしまった。普段はどうしても起こって欲しく無い時に限って起こるものなのだが、起こって欲しいと思っていると逆に出ないようである。
 熱など出ないに越した事は無く、現状が維持できるのであればそれで構わない。そんな楽観した考えも忘れてしまった頃、唐突に発熱は起こった。
 金曜の夜はお互い仕事も早く終わった事もあり、久々に外食をして帰宅した。それから軽くリビングで飲み直し、丁度酔いが回りきった所で就寝。そして何となく違和感を感じて目が覚めたのは夜中の事だった。自分の呼気の熱さと頭痛を夢の中で感じ、何かおかしい事に気付いて自ら目を覚まさせる。真っ暗な自室の天井を眺めながら、恐る恐る自分の体調を確かめる。額の奥にはぎゅっと絞るような鈍い痛みが絶え間なく続き、呼吸をするたび喉の奥にざらざらと呼気が引っ掛かる。鼻を抜ける独特の苦味、膝や鎖骨の付け根に走る疼痛、そして舌の粘り。どれも馴染みのある症状ばかりである。そうと分かっているが、やはり手のひらを額の上に重ねた。そして感触もいつもと同じである。どちらも熱くなっているせいで、はっきりと体温が測る事が出来ない。
 関節が軋むほど重く怠い体を何とか起こし、ベッドへ腰掛ける。頭が重く、自分で支えておかなければ姿勢を保つことが出来ない。膝へ力を込めて立ち上がろうとすると、まるで腰が抜けてしまったかのように床へへたり込んでしまった。普段よりも症状が遥かに重い。前回、職場で発熱した時と全く同じだ。
 やはり症状は重くなっている。こればかりは確かなようだ。
 まずは解熱剤を飲まなければ。
 サイドボードの上には、いつも処方されている解熱剤と水差しを用意している。気休めぐらいにしか効かないが、とにかく決められた通り三錠を口へ放り込んで水で流す。悪寒で歯の根が合わず、喉の痛みも相まって、酷く水が飲み込み難い。思わずむせそうになりながら、どうにか薬を飲み下した。
 更にもう一杯水を飲んで一休みし、膝に力を入れて立ち上がる。水で少しは体温が下がったのだろうか、少しだけ立ち上がるのが楽になっていた。しかし、このまま前回の経緯をなぞると、更に熱が上がって気を失い昏倒するだろう。その前に、キョウコを呼ばなければ。
 生き死にが掛かっているというのに、自分の思考が随分とのんびりしていると思った。それほどに熱のせいで思考力が鈍っているのだろう。この危機感の無さと思考の鈍さがうすら恐ろしい。
 キョウコの部屋は隣だから、大声で呼べばキョウコには伝わる。しかし、とても大声を出せるような体調ではない。直接部屋まで行って、ドアを叩かなければ。
 何とか自分を奮い立たせて部屋の外へ出ようとする。そこで、ようやくアクツ夫人に貰ったあの薬の事を思い出した。あの薬は、こういう時に効く薬だった。その思いだけで、そこから何とか踏ん張って自分の机へ引き返す。たった数歩の距離がやたら遠く感じ、部屋が住み慣れた自室とは思えないほど広く見える。確か、高熱が出た時にそういう錯覚
起こす症状があったはずだ。
 引き出しから薬を取り出し、中のカプセルを一つ捻り出す。本当に効くのかという疑いはあるものの、ともかく今はこの熱がどうにかなってくれれば良く、それ以上の複雑な事は考えられなかった。祈るような気持ちでカプセルを前歯で咥え飲み込む。しかしカプセルは喉の途中に引っかかっているような感触があり、またサイドボードの所までよたよたと歩き、更にもう一杯の水を飲むことでようやく胃の中へ入っていった。薬を飲むだけでもこれほど疲れるとは。相当体調は芳しくないようである。
 まだこうして立って歩ける内にキョウコの部屋へ向かわなければ。
 改めて部屋の外へ出ようと足を引きずったその時だった。わざわざキョウコの部屋へ向かわなくとも、携帯で呼べば良いのではないか。そんな、普段なら当たり前のように思いつく事に気が付いてハッと息を飲んだ。
 こんな簡単な事にも気付かないなんて。つくづくこの熱が憎らしい。