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 何かの拍子でを覚ましたのは、朝とも夕方とも取れる薄暗い時間帯の事だった。自分でも時間の感覚が分からなくなるほど眠ったらしい。世の中には、目覚ましが無くとも起きられる正確な体内時計を持っている人もいるが、流石に俺はそこまで時間を計る事は出来ない。ただ頭の中がどれだけ冴えているかで、大凡の睡眠時間を推測するだけだ。
 頭の下に、まだひんやりと冷たい水枕がある。熱が出た時は幾分心地良いのだが、今は頭が痛くなりそうな冷たさに感じた。上半身を起こし窓際を見ると、カーテンの隙間から眩しい光が差し込んで来ているのが分かった。耳を澄ませば、雀の鳴き声も聞こえて来る。どうやら時刻は朝方らしい。その反対側では、キョウコがベッドの脇に座椅子を持ち込んで静かに頭を揺らしながらうたた寝をしていた。いつもの事だが、感謝で頭が上がらない思いである。あの発熱具合からして、俺は少なくとも丸一日は眠っていただろう。多分その間キョウコはずっと付きっ切りで看病してくれていたに違いない。
 このままでは風邪を引いてしまう。そう思った俺は、ベッドから上半身を乗り出してキョウコを優しく揺らして起こす。一瞬キョウコの体がびくりとはねると、驚いた顔を向けながら目を覚ました。
「よう、そこで寝てたら風邪引くよ」
「いえ、私は大丈夫ですから。それよりイサオさん、具合は如何ですか?」
「ああ、凄くいいよ。むしろ腹が減ったくらいだ。熱も下がったみたいだし」
「え、本当ですか?」
 キョウコが俺の額に手のひらを当てて自分のとを比較する。熱は実際に下がってはいるようである。キョウコの手のひらがいつもとは違い、やや温かく感じるからだ。それを、何故熱が下がった事を疑うのか、と俺は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「本当、平熱のようですね」
「だろう。たっぷり寝たからじゃないかな。俺はどれくらい眠ってたんだ?」
「どれくらいも何も、寝たばかりじゃありませんか。まだ三時間位ですよ」
「三時間? たったの?」
 身を捩って枕元の時計を確かめると、時刻はまだ午前五時に若干届いていない早朝である事が分かった。発熱したのは夕べの深夜だったはず。熱の度合いも今までとは違い、自分で立って歩くのも困難で声すら張れないほどだったのだが。それが、たった三時間程度で回復するなんて。先月に発熱で死にかけて入院までした事が、まるで嘘のような出来事である。
「今回は軽い熱で済んだようですね。昨夜は落ち着いてましたから、いつもより安心して看ていられました」
「寝てからはよく覚えてないんだけど、熱は相当酷かったように思うんだが」
「いいえ、そんな事はありませんでしたよ。確かに熱は高めでしたけど、いつものようにうなされたりしませんでしたし、顔色も悪くはありませんでしたから。もしかして、ただの風邪なのではありませんか?」
「そうなのか……。うん、まあそういう事もあるよな」
 だが、キョウコの言っているような風邪では決して無い事は、何よりも自分の体が分かっている。あの急激な強い発熱と諸症状は、間違いなく長年俺を苦しめているあの熱病に違いはないのだ。それがこうもあっさり回復したという事は、もしかするとアクツ夫人から戴いたあの薬のおかげなのだろうか。
 コルチレートは免疫抑制剤である。それが、アクツ夫人同様に俺にも効き目があったとするなら。やはり、これは一度事実関係を担当医に話すべきである。処方箋は元より、どうして今までアクツ夫人にだけで、俺には処方してくれなかったのか。その理由もだ。
「今着替えとタオルを用意しますから、もう少し眠っていて下さい。風邪は治り始めが肝心ですから」
「いいよ、もう大丈夫だから。それより、お前の方こそ少し寝た方がいいぞ」
「イサオさんが着替えてから休みますよ」
 そう言ってキョウコは、またいつものように忙しない足取りで部屋を後にした。昨夜は夜中に起こしてしまったからまだ眠いはずなのだが、そんな疲れは微塵も感じさせない。疲れていないはずはないのだから、そう振る舞っているだけなのだろう。俺に気負わせないためなのだろうが、却って申し訳なさが強まってしまう。
 程なくして、キョウコはぬるま湯の洗面器を持って来た。俺は寝間着を脱ぎ、ぬるま湯で絞ったタオルで背中を拭き清めて貰う。熱を出した時はいつもこうして汗を流しているが、今日は熱が完全に引いてしまっているから、出来れば熱い風呂に浸かりたい所である。もっとも、言い出した所でキョウコが何と答えるかは目に見えているが。
「ざっとでいいよ。あまり汗もかいてないみたいだから」
「そうですね。でも、このまま熱が落ち着いていけばいいですね」
「そうだな。これぐらいの熱に収まるなら、もう入院の心配はないからな。後は記憶の方か」
「まだぼやけているのですか?」
「ああ、どうにも昔の事がまるで思い出せない。でも大丈夫、お前の事は忘れないし、お前の事だけ覚えていられればそれでいいから」
「もう、何を言うのですか」
 とんっ、とキョウコの手が俺の背中を強めに叩いた。
 それは、照れ隠しなのか、純粋な批難なのか。何故かこの時は、どちらとも自分では付けられなかった。