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「今日の病院はどうでした?」
 その日の夕食で、珍しくキョウコがそんな事を訊ねてきた。いや、それは単に、いつもは俺の方からナノマシン比率がどうだったとか話しているが、ここ最近は問診ばかりで進展が無くあまり話さなくなったからだろう。
「ああ、うん。ちょっとな」
「どうかしました?」
「いや、別に。何も無さ過ぎてさ。別に診察とか要らないんじゃないかなと思って。どうせ、貰う解熱剤も大して効かないんだし」
「でも、先週は良く効いたじゃありませんか」
「たまたまじゃないのかな。そもそも熱自体が大した事なかっただけかも知れないんだし」
 今日クリニックであった事をキョウコに隠す理由はないのだけれど、それは必然と薬剤師の自分が他人に処方箋された薬を服用し、それを隠していた事も打ち明けなければいけなくなるから、ならは報せないままでも良いかと思ってしまう。こういう時のキョウコのリアクションは大方想像がつく。普段は口数が少ない癖に、一旦スイッチが入ると恐ろしいほど口喧しくなるのだ。
「ところで、イサオさん。来週は何か予定はありますか?」
「何かあるのか? 別に今のところは無いから、空けたままにしておくけど」
「いえ、そろそろ免許証の書き換えをしないといけなくて。実はうっかりしまして、もう期限が過ぎてしまったんですけど、半年以内なら簡単な手続きで再発行が出来るそうなんですけど、ちょっと自信が無くて」
「ああ、なるほど。でもお前、免許なんか持ってたんだ。良く取れたな」
「若い時に、何とか頑張ったんです」
 それぐらいなら自分でも出来るとばかりに、口を尖らすキョウコ。普段俺に機械音痴ぶりをからかわれているからだろう。乗用車の運転などほとんど機械の補助でするものだから、よほど不適合でもなければまず免許は取得出来る。そこをからかわれては、流石に反論もしたくなるだろう。
「俺も再発行はやったことなかったなあ。まあ、行けば何とかなるだろう」
「何か特別必要なものはありますか?」
「案内にあるものだけでいいんじゃないか? 後は、自分の名前を自筆で書かされるくらいだ」
「免許はまだ自筆なんですね。お店の会員証なんかは全て電子認証なのに」
「民間とはまた違うのさ。一応、自分の名前を書けるかどうか確認した方がいいぞ。俺、普段自分の名前を書くことが無かったから、いざ書こうとしてちょっと戸惑ったからな」
「また、からかってません?」
「いや、本当だって。からかってなんかいない」
 むくれるキョウコをいなしながら夕食を済ませ、次は風呂へ入る。風呂は大抵一人で入るものだから、のんびりと湯船に浸かり考え事をするのには最適である。今日は、それを改めてありがたく思う、そんな気分だった。
 自分自身について、諸所の問題は日頃から絶えない。そのほとんどは自分の健康についてなのだが、今はそれがかつてないほど膨れ上がっている。
 発熱の体質は未だに回復するどころか、悪化すらしている。かかりつけの担当医は、その原因を把握していながらも、どういう訳か俺に隠してきた。そして、免疫抑制剤という馴染みのない薬が俺の発熱に抜群の効果を表した事。極めつけは、あのアクツ夫人と俺に対して、担当医はいずれ告知しなければならない重要な何かを隠しているという新事実だ。しかも、関わっているのは担当医だけではないそうである。
 今日だけで、俺の悩みはこれほどに膨れ上がった。しかも、いずれも自分でどうにか出来るものではなく、相談する相手すらいないものである。出来ることなら直視する事を避けたくなるような状況だが、辛うじてそれが無駄であると分かる程度の理性が残っているのが困り者である。
 深く悩み過ぎない方がいい。自分ではどうにもならない悩みは、悩んだ所で仕方がないのだ。
 やがて気持ちの整理がついた頃、風呂から上がった。
 体をバスタオルで拭きながら洗面台の鏡を見ると、鏡は湯気で真っ白に曇っていた。ふとキョウコの免許の再発行の事から、自筆で自分の名前を漢字で書かなければならない事に戸惑った昔の自分を思い出し、苦笑いする。
 自分の名前くらい、本来なら書けて当然なのである。呼吸をするのが無意識であるのと同じ事だ。それを確認するため、曇った鏡に指を伸ばした。俺の名前はアクツイサオ。そんな事くらい、今更確認するまでもなく、書けて当然の事である。
 しかし。
「……ん?」
 直後に俺は、背筋がゾッとするような冷たいものを感じた心境に陥った。曇った鏡に指をつけた直後、そこから指をどう動かせばいいのか、まるで分からなかったのだ。初め、それはあの時と同じように、普段から自筆で書いたりしなかったから、たまたま度忘れしてしまっているだけかと思った。けれど、そんな比ではない事に気付くのにはさほど時間はかからなかった。自分の名字であるアクツが、そもそも漢字では何文字になるのかすら思い出せなかったのである。
 馬鹿な、こんな事があるはずがない。
 次の瞬間、俺は慌てて洗面所から飛び出して自室へ駆け込んでいた。
 机の上から財布を取り、中身を全てそこに広げる。そこから自分の名前が分かるものを探したものの、すぐに視認出来るものは見つからなかった。会員証や免許証ですら、そういった情報は全て電子チップに収めてあるため、リーダーが無ければ読む事は出来ないからである。むしろ、今の時代はそんなものばかりだ。セキュリティを重要視するあまり、自分でも簡単には自分の名前が確認出来ないのだ。
「イサオさん? ちょ、どうしたのですか? そんな裸で急に」
 背後から、驚きと困惑の入り混じったキョウコの声が聞こえてくる。俺は返答よりも先に、すがるような思いで振り向いた。
「な、なあ、キョウコ。俺の名前、どういう字を書いたっけ?」
「字って、漢字の事ですか? それでしたら、夜が明けるに津波の津で」
「いや、ちゃんと目で見て分かるものは無いか? 何かの書類とか、ハガキとか」
「そんな、急に言われましても。とにかく、探してみますからイサオさんは服を着て下さい」
「それは分かってる。でもな、俺の名前が」
 自分が、服を着ることすら煩わしくなるほど動揺している。書けて当たり前の自分の名前を、いざ書こうとして全く書けなかったのだから当然だが、この恐ろしさをいまいちキョウに伝え切れていないのではないかというもどかしさがあった。今、どれだけ自分が恐ろしい思いをしているのか。どう例えれば伝わるのか。俺はあれこれと嫌な汗を流し地団駄を踏みながら知恵を巡らす。だが、名案よりも先に、また嫌な予感が頭を過ぎった。
 思い出せないのは、本当に自分の名前だけなのだろうか?
 キョウコの漢字はどうだった? 俺の担当医の名前は何だった? いや、そもそも。一体何時から俺は、自分の名前の漢字が書けなくなってしまったのだ?