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 家中を引っ掻き回してようやく見つけたのは、古い履歴書の書き損じだった。納屋のダンボール箱の中の、いつどこで何に使ったのかも推測出来ないような古いファイルやスクラップブックの間から出て来たものだ。
 リビングに読書灯を持ち込み、目を凝らして発掘した発掘した履歴書をよくよく観察する。紙は大分古いもののようで、全体がうっすらと黄色に変色している。顔写真は無く、書かれているのも名前の漢字と読み仮名だけ。その読み仮名も途中で書き損じていて、それが使われずに棄てられていた理由のようだった。
 名字の漢字は明津、名前は功。字の書き癖から見ても、これを書いたのは自分自身ではあると思う。ただ、自分で書いた記憶が全く無いのと、自分の名前であるはずのこの漢字に馴染みを感じられない事が、今一つ確信することを躊躇わせる。
「この履歴書、何のために書いたのか分かるか?」
「いえ、まったく。見た雰囲気からすると相当昔のもののようですし、今は紙の履歴書なんて殆ど使いませんから」
「だよなあ。となると、お前と知り合うよりもずっと前の事なのかな」
 キョウコは複雑な表情でゆっくり頷く。良くは分からない、といった様子である。キョウコも分からないとなると、この履歴書は何のために書かれたものなのか調べようがなくなる。もっとも、知りたいのは俺の名前の漢字なのだから、書かれた経緯はさほど重要ではないのだが。
「俺の名前、こんな風に書くんだな。お前、知ってたか?」
「それは勿論です。忘れませんよ。大事な事ですから」
「そうだよな。普通、忘れないよな、こんな事は」
 そう、普通は忘れないのだ。俺は何度もその常識を繰り返し呟いた。
 自分の名前、家族や恋人の名前など、どれだけ世の中の電子化が進んだとしても、手書きが出来なくなるほど忘れるような事は有り得ないものだ。ましてや、漢字そのものを忘れるばかりかこうして正解を見ても実感がわかないというのは、かなり異常な症状である。まるで自分の名前がすっぽりと頭の中からきれいに抜け落ちでもしたかのようだ。こんな自然ではない事は、何かの病気か事故の後遺症でも無い限りは起こり得ないと思う。となると、俺に自分の名前の漢字を忘れさせたのは、この生来の熱病なのだろう。
「そんなに落ち込まないで下さい。病気のせいなんですから、仕方ないんですよ。ほら、またこうやって書き取って覚えれば良いじゃありませんか」
「そうは言うけどさ。自分で自分の名前を忘れてしまうショックは、そう簡単には立ち直れないよ。こんなに酷い事になってるなんて、今まで思いもしなかったんだから」
「これからは、そういう事と付き合っていかなければいけなくなるんです。少しは折り合いのつけ方を考えませんと。ほら、病気との付き合い方を考えるようにと、以前先生が仰ったじゃありませんか」
「付き合い方って、自分の名前も忘れるような病気とどういう付き合い方が出来ると思う? 第一、自覚がないだけで、忘れたのは自分の名前だけとは限らないんだぞ。自分がどれだけ大事な事を忘れてしまっているのか、それも想像がつかないんだから」
 一体自分はどれだけの記憶を無くしてしまっているのか。日常生活や仕事に影響するような記憶はそっくりそのまま残り、人の名前の漢字が綺麗に抜け落ちている。それが現状の認識なのだが、もっと根本的に重要な事を忘れていてその自覚が無いというのは十分に考えられる事態だ。忘れてはいけない事を忘れているのに気付けない、幾らでも恐ろしい事態が想像出来てしまうし、不安な時ほど想像は悪い方へ傾くものだ。
「忘れるのは仕方ありませんよ。気づいたら思い出して、覚え直せばいいのです」
「携帯の電話帳じゃないんだから。俺は大事な事を忘れてしまった事実がショックなんだよ。自分の名前だってこうだったんだから、多分お前の名前も書けなくなってるよ。その事に何も思わないか?」
「病気のせいなら、許すとか許さないとかはありませんよ」
 多分キョウコならそう答える。ある程度予測して放った質問に、キョウコは本当に期待通りの返答を返してくる。本音にしろ気遣いにしろ、言葉に刺を持たせない優しさが本当に辛かった。自分が、保護されなければ何も出来ない、酷く劣った人間のように思えてしまうのだ。
「じゃあ取り敢えず、試しに書いてみるぞ」
 ボールペンとメモ用紙を構え、頭の中にキョウコの名前の全ての漢字を思い浮かべる。
「フルネームだと、イシカワキョウコ。それは覚えてる。じゃあ名字は、石川か?」
「いえ、違います。大河の河で、石河ですよ」
 メモ用紙に書いた名字を、すかさず訂正させられる。またしても、正解の字を見ても俺は実感も何もわいてこなかった。
「キョウコは……駄目だな、やっぱり思い出せない。全然浮かんで来ない」
「香るに子で、香子です。難しい字ではありませんから、覚え直して下さい」
「覚えるよ。覚えるさ。でも、どうせすぐ忘れるぞ、きっと」
「ならば、これから毎日イサオさんと私の名前を書き取りしましょう。それで改めて覚え直してみるんです」
「覚え直しても、また忘れるんじゃ一生懸命じゃないのか」
「毎日繰り返していれば、少なくとも書けなくなるような状況にはなりませんよ」
「まるで老人のリハビリみたいだな」
「いいじゃありませんか。少し前倒ししたと思えば」
「お前は前向きだなあ。羨ましいよ」
「私の場合、前向きにならないとどうしようもない体ですから」
 ああ、そうだった。キョウコは俺よりも遥かにナノマシン比率の高い体で、体調の保証が無いのだった。
 けれど、決して自分の方が恵まれているとは思わなかった。たとえ体が健康だとしても、記憶が消えて行く病が体を蝕むことに劣るとは到底思えないからだ。