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 学生くらいの時分には、肉だろうと揚げ物だろうと、胃の負担というものを全く意識しないで食べていた。それが気がつくと、最近の俺はすっかり和食党になってしまっている。そもそも、ナノマシン化のため胃がもたれるとかの不調は起こらないのだが、昔ほどたべたいとは思わなくなってきた。食の嗜好が年と共に変わったのだろう。それと、和食を多く作るキョウコの影響なのかもしれない。
「ビーフシチューなんて、食べるのはどれぐらいぶりかな。もう何年も食べていないと思いますよ」
「キョウコさんに作ってもらったりはしないのですか?」
「そもそもリクエストしてないと思います。何せ、いつの間にか和食党になったくらいですから」
「では、私とは逆ですね。朝食はいつもパンですから」
「前に、朝食は御飯の方が健康にいいと、テレビで医者が言ってましたよ」
「そういうのは、自分がストレスを感じない範囲でやるもんですよ」
 談笑しつつ傾けていたグラスのウィスキーが空になる頃、バーテンダーが奥からビーフシチューの盛られた白い皿を二つ運んで来た。それは、運んでいる途中から香りを感じられるくらい香ばしく、非常に食欲を煽って来るほどのものだった。こうも香ばしいとなると何か特別な料理なのかと思ったが、皿を見下ろしてみたが別段変わった具材も見当たらず、極普通のビーフシチューである。
「ああ、良い香りだ。私はすっかりこれに病み付きになっていましてね。さあ、冷めない内に頂きましょう」
 担当医に促され、俺もいつの間にか見とれていたビーフシチューへスプーンを伸ばした。まずは大きな牛肉へスプーンを入れてみる。すると、まるで絹ごし豆腐のような手応えの無さで二つに割れてしまった。よほど良く煮込んであるのだろう。更にもう一回切り分け、その肉と一緒にたっぷりとシチューをすくって口に運ぶ。まず舌が感じ取ったのは、デミグラスソースの風味だった。しかし、舌の上で伸ばせば伸ばすほどその風味は複雑な広がりを見せ、そして気が付くと口の中が空っぽになってしまっていた。思わず二口目をすくい口へ運ぶがまたしても同じ味わいで、しばしどう表現していいのか言葉に悩んでしまう。
 そして三口目を口へ運んだ時、ふとこの風味が初めてではないような印象が頭を過ぎった。過去に同じものを食べた事があったのだろうか、とも思ったが、そういう意味とはまた違う気がする。うまく表現が出来ないが、何時かこうしてビーフシチューを作って貰って食べたような気がうっすらとするのだ。
「どうです? 美味いでしょう?」
「え、ええ。こんなに美味いものは久しぶりに食べたと思います」
「久しぶり?」
「多分ですけど。ビーフシチュー初体験という訳ではないと思うんですよ」
「そりゃそうでしょう。大概は子供の時にでも、母親が作ってくれたりしているはずですから」
 その母親の記憶が、何らかの理由で俺には無いのだが。そう言い返したい思いに駆られるが、その話題は流石に空気を荒らしそうだから抑えておく。
 しかし、この香り。昔どこかで嗅いだような気がする。それは一体どこでの事なのだろうか。普段はあまり外食もしないだけに、その詳細がどうしても気になる。ただ、朧気ではあるのだが、母親という単語が若干引っ掛かっている気がしないでもない。やはり俺も、子供の頃に母親に作って貰ったとか、そういう所なのだろうか。
「シチューは色々な材料を煮込んで作りますからね。栄養があるので、病中病後食にもいいんですよ」
「なるほど。体も温まりそうですしね。じゃあ、今度熱が出た時は、キョウコに頼んでみようかな」
「キョウコさんは料理がお上手ですからね、きっと喜びますよ」
 正直な所、発熱した時の看病をキョウコにいつもしてもらうのは、感謝と申し訳なさが入り交じった気持ちを持っているから、あまりどうこう自分から注文を付けるような事はしたくないと思っている。担当医はあくまで一般論の範囲で答えただけだろうし、そこまでキョウコと深く交流がある訳でもないから、今の言葉に大した深い意味は無いだろう。だが、それは分かっていても、よくよく彼は人の触れて欲しくない所に触れるものだと、ほんの少し苛立ちを覚える。
「そうそう、熱で思い出しました。先日お話した薬の事ですが」
「薬?」
「コルチレートの事です」
 唐突に切り出されたその話に、思わず声が上擦ってしまう。せっかくこちらから、わざわざその話題から離れていたのに。先ほどの苛立ちも相まって、自分で自分が興醒めしていくのを感じた。
「ああ、はい。それが何か?」
「まだ残っているのでしたら、熱が出ても極力飲まないようにして下さい」
「どうしてですか? これまで処方された解熱剤よりも効くんですよ」
「何故効くのか、お考えには?」
 疑問には思っている。しかし、その理由を訊ねても答えてくれなかったではないか。
 素直にそう答えようと思ったものの、こういう揚げ足を取るような言い方は角が立って良くは無い。ぐっと言葉を飲み込む。
「告知が決まり、済んだ後に、納得の上でなら良いのでしょうか?」
「そうかも知れません。その時は本人の判断にお任せしますから」
「しかし、どうしてそこまで慎重になるのです? それほど危険な副作用があるというのであれば、言っていただければすぐに破棄しますよ」
「難しい問題、としか答えのしようがありません。ですから、今は一つだけ」
「何です?」
「相性、です。ナノマシン化との相性」