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 今朝も名前の書き取りをした後、いつも通りの時間に出社した。名前は滞りなく書き取れたのだが、今朝はどうにも気分が晴れなかった。そうなる原因は自分でも分かっている。発熱の他に俺を悩ませているもう一つのこと、記憶障害だ。
 駅の改札を抜け、ホームから電車へ乗る。いつもと同じ番線、同じ車両、同じ乗車口だ。そう思うのは、昨日以前の通勤途中の記憶があるからだ。
 それを一つ一つ確かめつつ、またいつもと同じ座席へ座る。向かいの席には、見覚えのある高校生がテキストを開きながら座っていた。登校中も勉強を欠かさない真面目な学生である。おそらく俺は決まって勉強している姿ばかり見ていて、それで覚えているのだろう。
 自分の記憶障害は、高校生ぐらいから前が全く思い出せない、そういった古い記憶だけが対象だと思っていた。けれど、ここ数日はキョウコに何度も同じ話を、そうとは知らずに繰り返し話していたようなのである。それはつまり、俺の記憶障害が悪化した事を意味する。
 一体どうして急に症状が進行してしまったのか。理由はともかく、すぐにでも担当医に相談するべきだとは思う。しかし、どうにも気分は乗らなかった。例の告知の件ではないが、まるで自分が開けてはならない蓋に手を掛けているような気がするのだ。
 だけど、やはり連絡はすべきなのか。知らぬが仏という格言は、こういう時の為にあるのではないのか。でも、俺の場合は知らないのではなく、忘れているのだ。こうして悶々と悩んでいても、悩みを打ち明けるか否か迷っているその相手の名前すら思い出せないでいる。あの担当医の名前、昨日確かめたはずなのに。
 これが果たして自力で何とかなるものなのか。それぐらいなら、素人の俺でも見当はつく。やはり、手遅れになる前に打ち明けるべきなのだろう。
 携帯を取り出して、履歴から思い当たる時刻の着信記録から石河の文字を発見し、安堵する。思い出せはしなかったが、どことなく聞き覚えはあるような気にはなったからだ。
 通話する訳にはいかないので、メールで症状を伝える事にする。作成画面を開き、自分の記憶障害について思い付く事を出来るだけ簡潔に打ち込む。だが、こういう事に限って心当たりが多く、文章は見る見るうちに一画面に収まり切れなくなった。
 程なくして、降車駅の名前がアナウンスされる。そろそろ電車を降りなければならない。書き掛けたが十分な文章量になったメールをそこで送信し、携帯をしまいながら席を立つ。
「あっ」
 その直後だった。立ち上がろうとした膝が突然と崩れ、バランスを崩した勢いで床につんのめる。車内の他の乗客の視線が一斉に集まって来るのを感じ、体がかーっと熱くなる。とんだ醜態さらしだ。苦笑いする余裕もなく、すぐさま腕に力を込め立ち上がろうとする。しかし、どういうことなのか自分の体が恐ろしく重く感じ、幾ら腕に力を込めても立ち上がるどころか、上半身を起こす事すら出来なかった。
 おかしい、ただ転んでしまっただけのはずなのに。どうして起き上がれないのだろうか。どこか怪我でもしてしまったのか?
「あの、大丈夫ですか?」
 頭の上で、誰かが恐る恐る窺うように訊ねる。依然伏せたままの俺の周りに、何か異変を感じた他の乗客が少しずつ集まり始めている。
 大丈夫です、御心配なく。
 そう答えようとするものの、喉が掠れて声らしい声を発する事が出来なかった。
 転んだ拍子に胸を打ったせいなのか? いや、違う。ただ転んだせいではない。これは、あの熱だ。
 熱、この熱にはコルチレートを。
 コルチレートは確か鞄の中に入れていたはず。何とか力を振り絞り、左手の鞄に右手を伸ばす。担当医はコルチレートを飲むなと言っていたが、この状況ではそんな理由もない注意など守ってはいられない。
「今、駅員さんを呼びますから、あまり動かないで下さい。体、起こしますよ」
 それを遮るかのように、何人かの手によって体を正面へ起こされる。だが鞄は手放さず、何とか自分の胸元まで手繰り寄せたものの、肝心の右手を胸元まで運ぶのが酷く困難だった。
「鞄? 薬か何か入ってるのですか?」
 俺の仕草に何かを悟った一人が覗き込みながら訊ねて来、それに必死で頷き返す。彼は一言断ってから俺の鞄を開け、中から小さなピルケースを取り出す。そしてその中に入っているカプセルを口の中へ入れて貰った。
 これで熱が下がる。
 そう安堵した直後、突然と意識を失った。