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 何も無かった所から唐突に目が覚める、その独特の目覚め方は前に入院した時と同じ感覚がした。また病室のベッドなのだろうかと恐る恐る目を開けてみると、案の定そこは見覚えのある個室だった。前に仕事中倒れた時に入院した、区立病院の一室だろう。流石に前回とは違う部屋だろうが、病室の間取りや内装は見覚えがある。
 一体今は、何時何刻なのだろう。カーテンが開けられて日差しが高い所を見ると、日中の時間帯ではあると思う。食欲はあるとも無いとも言えぬ不明瞭な状態で、家を出てからどれぐらい経ったのかまでは見当がつかない。
 周囲を見渡し、何か日時を確認出来そうなものを探す。そして、やはり枕元には見覚えのあるデザインの時計があるのを見つけ、今の時刻が日の変わっていない午後一時である事が分かった。電車の中で倒れてから、まだ数時間しか経っていないのである。額に手を当ててみると熱っぽさは無く、意識を唐突に失うほどの高熱だった割に随分症状が軽いものだと思う。それはきっと、意識を失う間際に飲んだコルチレートが効いたおかげだろう。これだけ激しい症状に対し、これだけ強力に効果を表すのだから、やはり俺はコルチレートを処方されるべきではないのだろうか。真っ先にその事を思いつく。
 病室内には誰もおらず、医師の回診にしても時間があまりに遅い。何となく手持ち無沙汰になった俺は、ベッドから身を乗り出してリモコンを取ってテレビをつけ、枕元にあった携帯を開いた。携帯には会社から一件だけ不在着信があったが、また前回と同様にキョウコ辺りから連絡は行っているだろう。上司には後ほど改めて連絡をするとして、まず最初はやはりキョウコへ連絡するべきだろうか。そう思い立ちメールの作成画面を開くものの、意識を失って病院に運ばれた人間のする事としてはいささか緊張感に欠けると思い直し、メールは破棄して携帯を閉じる。すると、何故だか無性に自分が目を覚ましている事を誰かに伝えるべきではないのか、そういう焦燥に駆られた。手っ取り早くナースコールのスイッチを押そうかとも思ったが、これは日常生活で言う所の火災警報器のようなもので、その程度の用事で押すのははばかられる。ならば、直接ナースセンターへ足を運ぼうかと考えてみたが、これはこれで患者と看護師との関係が逆転しているから、かえって先方には迷惑になるような気がして断念する。
 結局の所、今は何もしないのが一番無難な選択のようであり、俺はベッドに寝転がりながらさほど興味の無いテレビを眺め始めた。
 それからしばらく退屈な時間を過ごしていたが、丁度午後三時を過ぎた頃になって、唐突に病室のドアが開いた。
「ああ、お目覚めでしたか」
 現れたのは私服姿の担当医だった。いや、彼にはれっきとした名前があり、俺はそれを確認しているはずである。しかし、どうしても名前を思い出せなかった。
「病院はいいんですか?」
「今日は午後は休診でしたから。また病院へ運ばれたと聞いて、驚きましたよ」
「もしかしてキョウコから聞きましたか?」
「ええ、丁度私が仕事場に着いた辺りにです。どうですか、容態は?」
「いたって元気ですよ。もうすっかり熱も下がりましたから」
「それはもしかして、コルチレートを?」
「ええ、まあ。電車の中で倒れて、自力で起き上がれないような状態だったので。でも、入院してから何か薬は投与されているかもしれませんよ」
「いえ、必要はないでしょう。コルチレートがあれば、基本的には片が付くんです。それだけ医者が知っていれば、後は一晩寝かせるだけですから」
「医者が知っていればって、別にここの病院にかかりつけている訳ではないんですよ。幾ら何でも、俺のこの体質の事とか知らないでしょうに」
「普通ならそうかも知れませんね」
 それはまるで、このケースは普通では無かった、とでも言いたげに聞こえる。しかし、これは病室を訪ねるや否やにするような会話ではないだろう。もう少し驚くとか安堵を見せるとか、普通はまずそういう所から入る。まるで、最初から俺が大事には至らない事を察しきっているようで、少しばかり面白くなかった。
「後ほどキョウコさんもこちらへ来るそうです」
「そういや今日は仕事だったかな? 急遽行かないといけなくなったとか言ってたな」
「それは何時の事です?」
「夕べの事ですけど、それが?」
「いえ。ただ、随分確信を持って答えたと思いまして」
「流石にそれくらいの事は忘れませんよ」
「となると、私の名前を忘れたのは、それくらいの事でもなかったからでしょうかね」
 隠していた事をつつかれて、どきりと胸が高鳴る。病人に対して酷い不意打ちだと苦笑いするものの、担当医にはこちらをからかう意図は無かったらしく、驚くほど温度の低い真顔のままだった。
「そんな事はありませんよ。ちょっとど忘れする事があるくらいです」
「『似た名前だから忘れようがないのに』、とあなたからのメールにはありますよ。症状が深刻だと御自分で思われていたのでは?」
「メールですか? それはいつのです?」
「今朝のものです。キョウコさんからの連絡が来る前でしたから、おそらくあなたが倒れる直前のものでしょう」
「倒れる直前って……」
 そんな状況でメールを打てるはずがない。今朝だって、いつものように座席に座ってひたすらボーッと景色を眺めていただけのはずだ。確かに電車の中でメールを打つ事はあるが、今日はメールをするような理由はあっただろうか。
「大丈夫ですか? 何か思い出せない事があるようですが」
「あ、まあ。それはいつもの事ですから」
「いつもの事が覚えているのかどうか不安なのでしょう?」
「いや、そうだったかな、そんな気もしますが……」
 果たして俺は、本当にメールなど打たなかったのだろうか? 普段やらない事をやっていれば、必ず記憶には残っているはず。けれど、たったそれだけの事なのに、はっきりと断言が出来ない。本当はどうだったのか、いまいち確信が持てないのだ。