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 いや、それは仕方がないで済まされることではないのだが。
 どこか、互いに何を重要視しているのかに温度差があるような気がしてならなかった。俺が見当はずれの事に神経質になっているのか、担当医の説明が不明瞭過ぎるのか。苛立ちとまではいかないものの、ストレスを感じないと言えば嘘になる。
「治療を引き継ぐ経緯を説明する前に、ここに至った背景、そもそもの発端について話そうと思います」
「突然の熱病で合法ではない処置を受けた、その辺りですか」
「いえ、その後です。アクツさんは、その後に何が起きたのか御存知ないのでは?」
 学生時代の記憶は全くと言っていいほど残っていない。一番古い記憶など、就職活動の面接で緊張した事ぐらいだろう。担当医の言う通り、最初の発熱後の経緯は全く知らない。ただ、俺は担当医の、ここに至るまで、という言い回しが気にかかった。ここ、が差す所は一体どこなのか。普通に考えれば、俺が未だ頻繁に発熱を繰り返す現状の事だろうが、何となく別なことを言わんとしているように思えた。
 俺が無言で頷き返すのを確認し、担当医は話を続けた。
「アクツさんは恐らく、何事も無く進学し就職したと思われていると思います。ごく一般的な人生プランで、大半の人間が送るのと大差ない平凡な人生を送っていると。ですが、実際の所は非常に際どいバランスでそれは成り立っています」
「何がどう際どいのです?」
「健康状態ですよ。本来なら、いつ発熱してそのまま死んでもおかしくはない状態なのです」
「それは最近の事でしょう? それに、コルチレートという特効薬もある。持病で薬を常備してる人なんて、別に珍しくともないでしょう」
「そのコルチレートが何故特効薬になるのか、お考えには?」
「いや、それは分かりませんが。でも、それも話して頂けるのでしょう? それも含めて告知のはずです」
 そういえば、まだコルチレートが発熱に何故効くのか、はっきりとした回答を貰ってはいなかった。ナノマシンとの飲み合わせの相性かとも思ったが、それなら尚更俺に隠す理由はない。何か後ろ暗い事があるから隠すものだが、それとはまた事情は違いそうである。
「コルチレートとは、御存知の通り免疫抑制剤です。実のところ、あなたの体はもはやこれに頼らなくてはならない状態なのですよ」
「今更な気がしますけれど。なんせ、ナノマシン化では駄目だったから、という事でしょう?」
「いいえ、違います。アクツさん、あなたはもう何年もこれを服用し続けているんですよ」
「これって、コルチレートを?」
 そんな馬鹿な事があるはずがない。真っ先に俺はそう断言した。コルチレートが発熱に効く事がわかったのは最近の事だし、それ以前には全く服用などした覚えがない。そもそも、処方箋がなければ手に入らないような薬を飲んでいた事実を忘れる状況など、到底考えつかない。
「あなたは術後から、極めて危険な発熱を定期的に繰り返すようになりました。程なく、幾つかの臨床試験の結果、それを抑えるのに最も有効だったのがコルチレートと分かり、しばらくは従来通りの投与の仕方で経過観察を行いました。それからは病状は落ち着いていたのですが、それから程なくして、コルチレートにはとんでもない副作用を起こす危険性があることを、臨床試験者の異変によって発覚しました」
「異変、ですか。随分穏やかではありませんね」
「無論、経緯が経緯だけに表沙汰には出来ません。そしてその副作用が、古い記憶の消失なのです。脳が萎縮する訳でもなく、伝達物質の異常でもない、全く原因の不明な症状。強いて言えば、神経回路の機能不全という表現が近いでしょう」
 原因不明の記憶喪失。それはまさしく、俺の記憶障害と同じもののように思う。担当医がコルチレートに対して消極的だったのは、この副作用が理由だったのだろう。だが、その副作用を説明しないのはどういう事なのか。
「じゃあ、当時の俺にも記憶喪失の兆候があったのですか?」
「いえ、まだその時点では特に目立ったものはありませんでした。ともかく、危険な事に変わりは無いので、ただちにアクツさんへの投与も中止となりました。ですが、他に発熱を抑える手段が無い以上は、コルチレートをどうしてもどこかで少量なり投与する必要があります。そこで、コルチレートを常用するのではなく、必要に応じて行う事になりました。それにより、時折発熱はするものの、最小限の副作用で普通の社会生活が送れるようになったのです。今現在、あなたが普通の生活を当たり前のように送れるのは、このコルチレートによるものなのです」
「ちょっと待って下さい。私は今まで、コルチレートの管理などした覚えがありませんよ。それとも、まさか私はその事まで忘れてしまっているのですか?」
「いえ、そうではありません。投与の管理者は別にいます。決して事を公にせず、生活に密着しながら体調を管理し、当人にもコルチレートを知られないように振る舞える人間。人選は難しくはありませんでした。それらが可能で信頼も出来る人物が身近にいましたから」
「誰ですか、それは」
「キョウコさんですよ」
 キョウコが俺を管理していた?
 まさかそんな事があるものか、そんな意図でキョウコへ視線を向けるものの、キョウコは一瞬だけ顔を上げただけで、後はうつむいたままこちらを見ようともしなかった。後ろめたい気持ちがあるのか、俺が直視できない形相になっているのか。どの道キョウコの取る態度は、担当医が言った事の証左になる。
「いや、でもやはりおかしいですよ。キョウコとは就職した後になってから知り合ったはずです。副作用の事は、術後からさほど経たない内に分かったのですよね? だったら、時間の計算が合わないですよ」
「単にあなたが忘れているだけですよ。本当に、キョウコさんと知り合ったのはもっともっと昔の事です。同棲を始めたのも、社会人になってからではありません」
「そんなまさか! いや、そもそもどうしてそう言い切れるんですか。あなたとの付き合いは、キョウコよりも更に後に始まったんですよ!?」
「ですから! ですからそれは、あなたが忘れてしまっているからなんです。昔の事を何もかも……」
 声を荒らげた自分に、更に大きな声を被せてきた担当医。彼がこう感情もあらわに怒鳴るのを見るのは、多分初めての事だろう。だが、本当に初めてなのか、俺には自信が無かった。今の自分が本当にどれほど記憶を保てるものなのか、いささかでは済まない程度に不安を感じ始めているからだ。
「すみません……。ですが、私はこの告知に当たり、一言も嘘は言わないつもりでいます。ですから、これから話す事も、決して疑わないで欲しいのです」
「それは分かりますが……。ただ、自分は正直何が何だか。何故、あなたが昔の私やキョウコの事を知っていると言い、キョウコがずっと私の体調管理をしていたという事もそう、とても信じ難いんですよ。一体どういう経緯なのです? 私は、一体何を忘れているのですか?」
 担当医は俺の問いに対し、一度視線を切り、何度か深くゆっくり呼吸をした。自分を落ち着けているというよりも、何かの覚悟を決めているように見えた。この話は全て告知の一連なのだが、中でもこの事が最も重要な事らしい。担当医だけでなく、うつむいたまま動かないキョウコの肩肘が酷く張っている事や、平静さを保っているように見えてしきりに指を動かしているアクツ氏の姿を見て、そう思った。
「キョウコさんと、そして私。名字は同じ漢字、石に大河で石河。それはたまたまではなくて、私達が姉弟だからなんです。そして、あなたとは小学校へ上がる前からの幼馴染で。それを、あなたは忘れてしまったんです。最初の発熱の後に」