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 区立病院では、申請すれば見舞い客でもエキストラベッドを使って宿泊が出来る。本来は重病患者やお年寄り向けの為の制度らしいが、それがキョウコにも許可されたのは恐らく俺の特殊な身の上のせいだろう。それか、キョウコと担当医が姉弟なら院長はキョウコの父親でもあるので、その線も考えられる。
 夕食後はいつにも増してする事がなく、さほど興味のないテレビを眺めていた。オンラインシアターサービスもあるにはあるが、患者に要らぬ刺激を与えない配慮らしく、配信しているのは見ているだけで眠くなりそうな大自然や環境下ものと、幼児向けプログラムだけだ。
 キョウコは、椅子に座ったままじっと何かの本を読んでいる。よほど面白いのかほとんど瞬きもしていないし、そうやって俺が眺めていても視線に気付く素振りもない。
「なあ、そういやまだ聞いてなかったんだけどさ」
「えっ、なんです?」
 はっと我に帰ったかのように、慌てて本を置きこちらを向くキョウコ。
「キョウコの父親のこと。えっと、とりあえずは弟、担当医の先生にとっても父親になるんだよな。それで、この病院の院長で」
「ええ、そうですよ」
「まだ会ったことないんだけど、こうなる前から俺は面識はあったのか?」
「それはもう。当然の事ですよ」
「その割に、ここでは一度も会ってないと思うんだよな」
「そうですね。きっと、気まずくて避けているんです」
「何でまた?」
「イサオさんが熱を出す前日、私は生まれて初めて朝帰りしたんです」
「へえ、意外だね」
「その当事者がイサオさんなんですよ」
「え、俺?」
「そうです。凄く強引だったんですよ。今じゃとても考えられないくらい。まあ、イサオさんが相手に限っては、それも嫌いじゃなかったんですけれど」
 何ののろけ話だと思ったが、かつて俺がした事のようである。何だか面白そうな事のようで、今はそれも忘れてしまっているのが悔やまれる。もっとも、事の次第はキョウコに事細かに話させれば良いが。
「ただ、父がその事を知って激怒して、イサオさんを呼びつけたんです。それで」
「何、殴られたりしたの?」
「単にそれだけなら良かったんですが。イサオさんが、余計な事を言ってしまったんです。普段は仕事を言い訳にしてキョウコの事を放ってるくせに今更なんだ、なんて反論してしまって。せっかく穏便な説教で済む所だったのに」
「それで殴られた、と」
「ええ、新調したばかりのアイアンで。凄く頭から血も出ていましたし、近所の人まで集まって来る騒ぎになって、それはもう警察沙汰寸前でしたよ」
「警察沙汰って……それ、殺人未遂じゃないのか?」
「そうかも知れませんね。だから、父は多分今でもこう思ってますよ。自分が怪我をさせたせいで、悪い菌に感染して熱が出てしまったんだって。だから、どんな手段を取ってでもイサオさんを助けようとしたんです」
「良く考えてみれば、下手したら逮捕されて医師免許剥奪なんて事も有り得るんだろうな。その時は俺も何か擁護してやらないとな」
「多分、断ると思いますよ。自分はもういつ捕まってもいいような体裁ですから。そのために、キョウヘイにイサオさんの事を全て引き継いだのです。ずっと荒れていたキョウヘイも、イサオさんの事があってからは別人のように勉強を頑張り始めて、遂には本当に医者にまでなりました。二人はそれくらいイサオさんの事を大切に思っているのです」
「ならさ、せめて一度くらいはお礼でも言いに行った方がいいよな」
「それもよした方がいいですよ」
「何で?」
「まだ、私とイサオさんのこと、認めていないのです。あんな軽薄な男の何処が良いって」
「えっ、未だにそうなの? だって、本当の付き合い始めって、それこそ十年以上前だろ?」
「ええ、そうです。ですから私も、父とは十年以上ケンカ中なのです」
 つまり、俺がキョウコの父親と会えないのは、そういう個人的な事情のせいなのか。告知の時にも姿を表さないのは変だと思っていたが、何のことはない、ただキョウコと顔を合わせるのが気まずいだけなのだ。
「その分、イサオさんの御両親とは仲良くさせて貰っていますよ。時々御料理も用意して差し上げて。お父様には、お母様に習ったビーフシチューが喜ばれています」
「親父の代わりに、俺の様子を看てくれてるって事だな。お袋もああならなかったら、もうちょっと状況は変わっていたのかな」
「さあ。過ぎた事ですし、今更どうこう言っても仕方ありませんよ。大事なのは先の事です。イサオさんの記憶は、コルチレートを飲み過ぎない限り、基本的に手術より後の記憶は簡単には消えないんです。なので、これからは熱が出る度に記憶が消えることがあるのを覚悟して飲む事になります。その労苦に比べたら、一々あの時どうならとか悔やむ隙はありませんよ」
「随分と前向きだよな。俺はそうすぐには割り切れないんだけど」
「イサオさんにもそうなって頂くための、告知だったんですから。まずは一番身近な私からなってみせませんと」
「私を手本にしろって事だね」
「そこまで言うつもりは……っ!」
 そうキョウコがぷりぷり怒り出すかという時だった。突然キョウコは何かを思い立ったかのように勢い良く立ち上がると、真っ直ぐ病室備え付けの洗面所へ駆け込んだ。
「お、おい?」
 一体何事かと、慌ててその後を追う。キョウコは洗面台で酷く嘔吐していた。随分苦しいらしく、背中が何度も起伏を繰り返している。俺はその痙攣が収まるまで、繰り返し背をさすった。
「大丈夫か? どこか具合悪いのか? だったら、これから病院で看て貰おう」
「……いえ、大丈夫です。もう収まりましたから」
「収まったって。変な病気なら拙いだろ?」
「いいんです。これはつわりですから」
「はあ?」
 つわり。それは何だったかと、一瞬思考が止まる。
「子供、出来たのか?」
「はい。今は八週目です」
「はいって、何で今まで隠してたんだよ。いや……まさか俺、また言われたのに忘れてたのか?」
「御心配なく。本当にずっと隠していた事です。ただし、イサオさんにだけですけれど」
「何で俺だけ?」
「状況が変わった、という事は、こういう事なのです」
 だから、親父があまり乗り気ではなさそうだったのに、告知をしなくてはいけなくなったという事か。
「こんな体になっても、出来るものなのですね」
「順調なのか?」
「キョウヘイの話では、今のところ検査結果に問題はないそうです」
「そうか、うん。それならいいんだ」
 何だか妙な気分だった。自分が親になるというのは、就職して自活を始めた時よりも世界観が変わったような気がする。
 人の親になるには、自分で生きているという実感だけでは駄目なのだろう。だから、これまでのように知らぬ間にコルチレートを与えられ体調を管理されてきたような生き方ではならない。それが皆の見解だろう、何となくそう憶測する。俺は、自分の脳がナノマシン化している事実はなるべく考えないようにする事にした。自分の意志が機械じかけになっていて誰かに操作されているのじゃないか、そんな妄想が始まれば切りがない。自分の発熱との付き合い方としては後ろ向きなのかもしれないが、必要以上に神経質になっても仕方がないのは、既に身を持って経験済みである。ただ、熱と薬と記憶と、うまくバランスを取っていく事に注視する。思考を止めた楽観主義に思えるかもしれないが、実際どうにもならない事にはそのぐらいのファジーさがなければ、逆に神経が擦り切れてしまう。
「俺、この先うまくやれるだろうかな。子供の事も、何か忘れてしまいそうな気がする」
「大丈夫ですよ。イサオさんは意外と子煩悩だと思いますから。忘れたりなんかしませんよ」
「そうかな」
「そうです。もっと自信を持って」
 多分、キョウコの言う事は何の根拠も無い。だけど、それにわざと乗ってみるのも良いと思う。案外楽観した方がうまく運ぶような気がするのだ。今までが悲観的だっただけに、尚更そう思う。