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 元旦を翌日に控えたその晩、屋敷の至る所で慌ただしく使用人達が行き交っている。その喧騒を避けるように、普段あまり使われない離れの一室にて弾正忠は憮然と鎮座していた。日が落ちたにも関わらず灯火はなく、火鉢も部屋に持ち込んでいない。
 ここ数日、弾正忠はほとんど言葉を発せず、小姓も遠ざけられる事が多い。明らかな異様な様子に、遠ざけられる事が却って有り難いと安堵する者もあれば、このままふとした事で勘気に触れてはかなわんと恐々とする者もいる。弾正忠が隠る事はさほど珍しくはなく、ある程度経った所で誰かがそっと水を向けて収めるのが常である。それは気心知れた老臣であったり、幼い頃から彼を知る連枝衆のいずれかであったり、状況により変わる。ただ、今回に限っては誰も名乗り出る者は無かった。それは、弾正忠を隠らせている理由があまりに明白で、且つ容易には触れられないものであったからだ。
 遠くの喧騒と雪の降り積もる音だけが聞こえる中、ふと廊下の先から床板を擦る緩い足音と、ゆらゆらとちらつく明かりが差し込んで来た。誰が来たのか、応対する者も遠ざけているため、伝える者はいない。しかし、弾正忠は誰何の声を上げぬまま、肘置きに左腕を置いた姿勢のまま微動だにしない。
 程なく足音が部屋の前で止まり、居を正す衣擦れが聞こえる。障子越しに見える人影は僧衣で、いささか動作が緩慢な印象を受ける。恭しさを見せるのが下手なのだろう。
「針にございます」
 その名乗りに弾正忠は一言返すだけで姿勢を変えようとはしない。粗雑な返答にもその者はいささかも揺るがず、一言断りをした後に静かに部屋の中へと入った。
「今宵はいささか寒うございますな。火鉢はよろしいので?」
「要らぬ」
 吐き捨てるような返答に、恭しく座礼する。手元の手燭の明かりで、彼が白い息を漏らしているのが窺える。根雪になろうかという雪の晩に火鉢すら灯していないのでは、屋敷の中であろうと外と寒さは変わらない。だが弾正忠は、寝間着も同然の薄着のまま憮然として胡座をかいている。その姿は、寒さを意に介さないというよりも、自らの熱を冷ましているようにすら見受けられた。
「朝倉討伐は適わなかったとか。心中、御察し致します」
「能書きは要らぬわ、針阿弥」
「これは御無礼申し上げました。して、弾正忠様。拙僧めに御用とは」
「主に訊きたい事がある」
「さて、拙僧に分かる事であれば」
「仏とはどこに居るのだ?」
「仏、ですか」
「そうだ。仏門に通ずるお主ならば知っていよう」
 針阿弥の職務は、主に寺社への寄進や連絡係となっている。織田家に対する名声や大義を担保する代わりに金銭的な援助を受ける、そういった諸所の業務を担うのだ。針阿弥がこの職務についているのは、彼が織田家に召抱えられる以前より托鉢僧として尾張を巡っていたためである。各地に築いた人脈が、尾張平定の際に特に役立ったのである。
「仏の居られる場所とは、これはまた難題でございますな。さて、天竺かはたまた唐国の果てか」
「日の本には居らぬのか?」
「いえ。恥ずかしながら拙僧は、仏を己が眼にて見たことはございません。ですから、どこに居られるかなど断言する事は出来ませぬ」
「しかし貴様ら坊主共は、何かにつけて仏が見ているからとのたまうではないか。どこに居るかも分からぬようなものを、何故そのように信仰するのだ?」
 目に見えぬもの、どこにどのように居るのか、具体的な説明の出来ないものは存在すら信用しない。それは弾正忠の信条でもあった。強い信念と明晰な頭脳を持ちながらも尾張の守護代の分家という小身の出自であるだけに、幾度も難解な判断と舵取りを迫られていく内に強い現実主義者となったのは至極当然の結果と言えるだろう。
「殿は一向宗にお手煩いされましたが、それについての事かと愚考いたしますが」
「答えい」
「はっ……。では僭越ながら持論で宜しければ」
「構わぬ。申せ」
「拙僧は仏が存在するかどうか、はっきりとは分かりませぬ。経典を学び僧籍は持つものの、所詮は元から決まっている形式をなぞっているだけに過ぎませぬ。如何なる祭事や書状も、全て先人の例に倣っているのみ。そもそも拙僧は、仏を確信しているが故に仏僧となったのではありませぬ」
「食うに窮してか」
「左様にございます」
「だが現に、良しも悪しも仏に傾倒する者は後を絶たぬ。彼奴らとて、仏を実際に見た訳ではあるまい」
「拙僧と同じ、故事に則っているか、はたまた心の拠り所としているか、そういった所でしょう。人が仏を信ずるに至る理由は様々でございます」
「己に言い訳する理由という事か。ふん、儂には理解出来ぬわ」
「万人が殿のようにお強くある事は出来ないのでございます」
 弱いからこそ、見えぬ物の力にすがる。針阿弥の解釈は弾正忠の溜飲を下げる。しかし、弾正忠の機嫌が変わる様子は見られなかった。それどころか、一層胸中が荒立っていくように針阿弥には感じられた。それほど仏にすがる事が許せないのか、針阿弥はそんな思いと共に首を傾げたくなる心境だった。武家と自分とでは、やはり物事に対する捉え方や価値観はこれほど異なるのだろうか。
「儂が頼りにするものは、人、銭、米、鉄砲、いずれも目に見えて手に触れられるものばかりよ。仏は蟻も殺せぬが、鉄砲は塚が築けるほど殺せるからな。弱き者は救いを欲して、強欲な者は銭を欲して、仏を都合良く利用する。奴らにとってはいっそ、このまま目に見えぬ方が都合が良いやも知れぬが。しかし、目に見える物だけを信ずる儂と、目に見えぬ物を信ずる奴らと、一体どちらが強いとお前は思う?」
 弾正忠が言う奴らとは、一体何を差すのか。針阿弥の脳裏に幾つもの候補が浮かんでは消える。幕命に逆らった朝倉家、京へ敗走させられた裏切り者の浅井、仏法を説きながら武家の争いに介入してきた比叡山、いずれも弾正忠を怒り心頭せしめるには十分の者達である。しかし、今後の戦略を問うならば仏僧たる自分にこのような事は訊ねない、僧としての答えを弾正忠は求めている、そう針阿弥は考える。けれども、武家の習いに意見するつもりの無い自分に、果たして弾正忠を満足させる回答が出来るのだろうか。針阿弥は口元を苦しげに結びつつ、しばらくの間思案に暮れる。そして、
「殿、僭越ながら一つ申し上げたい儀がございます」
「何じゃ」
「拙僧は、仏の存在を肯定も否定も出来ませぬ。ですが、肯定の出来る存在を存じております」
「仏以外で目に見えぬ物か」
「左様にて。それは主に、妖かしと呼ばれる怪物にございます」
 突拍子も無い針阿弥の言葉に、これまで終始無表情だった弾正忠の顔色が変わる。手元が辛うじて見えるほどの雪あかりしか無いこの場でも、それははっきりと針阿弥には伝わってきた。
「戯けい。妖かしなど、それこそ戯言では無いか」
「拙僧もそう考えておりました。しかし拙僧は、その出来事を境にがらりと見解を改めたのでございます。そうせざるを得ないほどの出来事でございました」
「ほう。主を召抱えて随分になるが、そのような話は無かったな。よかろう、その戯言を申してみよ」
「はい、是非ともお聞き下さい。夢か幻か、我が目を疑わずにはいられぬこの出来事をば」