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 中野屋の敷地内には、蔵は大小含めて五つある。新しく建てた蔵ほど大きく、最も古い蔵が最も小さい。主人の中野彦二郎の話では、最も古い蔵には商いに関する品物は無く、ほとんど使わないようながらくたを収めるために使っているそうだった。
 蔵の出入り口には、古めかしい構えにはあまりに不似合いな仰々しい鍵が施されていた。傍目からは、この蔵にさぞや立派な宝が収められているのではと想像させられてしまう。
 彦二郎は、下男に蔵の閂を抜かせ、残った錠前をがちゃがちゃと鍵束を鳴らしながら丁寧に外す。鍵は解かれても扉は鉄拵えのため、容易には引くことが出来ない。下男二人がかりで開くと、中へ針阿弥が入り、そして空かさず扉は元の通り閉じられた。
 彦二郎はそわそわと落ち着かない様子で、不安げな表情で扉の腰窓越しに針阿弥へ語る。
「お坊様、どうかくれぐれもお気をつけ下さい。あれがこうなっている時は、同じ人間と思ってはなりません。何卒、お怪我だけはされませぬよう」
「お気遣い感謝いたします。それではしばしの間、お借り申す」
「下男を待たせておきますので、何かございましたらお声をおかけ下さい。それと、くれぐれも縛めは解かぬようお願いいたします」
「承知いたしております」
 不安げな彦二郎を置き、針阿弥は倉の中へと足を進めていった。ほとんど光の入らない蔵の中は昼間だというのに薄暗く、埃の臭いと黴臭さとで、ただ居るだけでも気が滅入る心境だった。そして、それとはまた別に何やら異様な気配が漂っているように感じる。はっきりとは分からないが、予期せず剥き身の刃物を見たような心持ちに似ている。
 お糸は蔵の真ん中で、太い柱に立ったままの姿勢で縛り付けられていた。口には布を噛まされていたようだが、一体どのような力で噛んだのか布は散り散りに噛み千切られている。
 こちらの気配に気付いたお糸は、うなだれていた頭を狐のような機敏さで持ち上げる。じろりと睨めつけてくる眼差しはやはり常のものではなく、爛々と不気味な光を湛えながら異様に見開かれていた。
「これ、娘。何故そう癇癪を起こすのか? お前の親父殿は心配しておるぞ」
「誰だお前は」
 答えるお糸の声は、年相応のものとは思えぬしわがれた声だった。叫び過ぎて喉が枯れたにしては、よく聞き取れるほどの声量がある。どこかに男が潜んで声色を使っているのかと思いそうになる。
「拙僧は一雲斎と申す。ただの食い詰め坊主じゃ」
「坊主風情が何の用だ! 俺をここから出せ!」
「それはならぬ。お前が正気を取り戻さねば出してはならぬと、親父殿の言い使っておるでな」
「関係あるか! 乞食の分際で俺に命令するな!」
「年頃の娘がそのような口を利くものではない。嫁の貰い手が来ぬぞ」
「嫁だ? そうだ、そうなればいい。そうすればこの家も不幸になろうぞ。もはや跡継ぎなど要らぬわ」
「一族が絶えても良いと申すか?」
「そうだ、絶えろ、絶えてしまえ。こんな家など要らぬ」
 お糸の様子は、当初予想していたものとは大きく掛け離れていた。癇癪や鬼胎であればまともな会話は期待出来ぬものと考えていたのだが、言葉の乱暴さはさておいて、少なくとも語彙の欠落は見受けられない。正気を失うというよりは、単に倫理観や品性だけが抜け落ちたように見える。そのように器用な心持ちの癇癪は聞いたことがない。
 これは、何かに対する抗議の意志の表れなのだろうか。そう想像する針阿弥は、しばらくお糸との会話を続け情報を少しでも引き出す事にする。
「どうしてそうも親父殿を悲しませようとする。このような大店を構え、それでいて驕ることもない、立派な父親ではないか。日々こうして綺麗な服を着れて白い飯が食える、これがどれだけありがたい事か分からぬ訳ではなかろうに」
「ははははは! 今度は搦手か? 着物だ食い物だと所詮は乞食坊主の発想よな! お前、あの男から幾ら貰ろうたのだ? 既に酒や女は世話されたのか?」
「痩せても拙僧は仏門の人、般若湯や女色を犯すようなはしたない真似はせぬよ」
「ならばこれから集る腹積もりであろう? 分かるぞ、この意地汚い乞食め!」
 その指摘には、大なり小なりそういう意図はあったため、強く否定する事は出来ない。路銀を少々工面して貰えればいいのだが、こちらからそれをせびるような真似はあまり好ましくはない。かと言って、好き好んでこのような厄介事に首を突っ込むほど、聖人君子でもないのだ。
「あの男が立派だ? そう思うなら、無駄な修行をしたもんだな。経を唱えても人の事は何も分からぬ」
「どういう意味じゃ?」
「あの男は悪党も悪党、人を平気で食い物にする大悪党よ! この店の蔵は食ろうた血肉で溢れんばかりだわ!」
 けたけたと笑いながら語るお糸の言葉に、針阿弥は腕組みしながら小首を傾げた。あの中野彦二郎という男は、やや気弱そうには見えるものの、実直で正直者な綺麗な商いをする人物に見える。立ち居振る舞いを見ただけでの勘ではあるが、諸国を巡り大勢の人間の人と形を見て来た経験があるのだから、あながち的外れではないという自負がある。
 お糸は一体どうして実の父親を悪人のように呼ぶのか、それは気を違えた振りをしてでも言うほどのものなのか。彼女の思惑が針阿弥にはどうしても推し量る事が出来なかった。