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 お糸の様子が戻り、それから何事もなく三晩が過ぎた夜更けの事。ようやく寝入り夢現の心持ちのところ、何処からともなく聞こえてきた耳うるさい雑音によって覚まさせられた。
 この夜更けに一体何事か。まさか物取りか押し入りではあるまいか。
 訝しく思いすぐさま床から這い出た針阿弥は、寝所の障子に手をかけ、開けようとしたのを寸前で思い止まった。思い止まらせたのは、その時頭を過ぎった先日の良仁の言葉だった。中野屋では、何か後ろ暗い謀をしているに違いない。だからこの物音は、丁度その最中ではないのか。そう、針阿弥は推測する。
 障子に写る自分の影に気をつけつつ、そっと障子を指一つばかり開けて外の様子を窺う。今夜は月明かりが眩しく、火が無くとも外の様子は十分に窺える。それだけに、ここで今覗いている事を見つからぬよう慎重にしなければならない。
「おい、早くしろ」
 程無く、中庭の方から押し殺した何者かの声が聞こえてきた。随分と殺気立っているようで、よほど何か危ない橋でも渡っているかのように針阿弥には聞こえた。声に続いて、ぎしぎしと木の軋む音と複数の足音が聞こえる。よく耳を澄ますと、中庭の砂利がしきりにぱちぱちと鳴っているのが分かった。恐らく荷車を幾つか引いているのだろう。だが、このような夜更けに声を潜めて、一体何を運び出そうというのか。まさか、盗人の類ではあるまいか。
 そう疑問に思っていると荷駄の音がこちらの前へ差し掛かって来たため、針阿弥は畳の上に伏せ、うつ伏せの姿勢で外の様子を窺った。程無く現れたのは、大きな木製の箱を括りつけた荷車と、それを引く黒尽くめの格好をした何者かの姿。同じような風体の荷車は後から更に続き、全部で五台が通り過ぎていった。音が遠ざかるのを確認した後、針阿弥は今少し障子を開けて荷車が去って行った方角を確かめる。未だ中野家の屋敷の案内は不自由しているが、恐らく裏手の門の方へ向かっているように思われる。後をつけてもう少し様子を窺おうかと思ったが、流石に度胸が付いて行かなかった。中野屋の者にしろ、盗人にしろ、今の出来事を目撃した自分を到底生かしたままにするとは思えない、そのような雰囲気だったからである。針阿弥は、開けた障子を音を立てぬよう慎重に閉めると、すっかり冷え切った体で床へ戻った。
 一体あれは何だったのか。
 中野屋の商売にしては、あまりにも異様である。このような夜半過ぎにまるで人目を避けるように運び出すなど、とてもただの反物のようには思えない。となれば、荷物の中身は反物では無く御禁制の何かと考えるのが妥当であろう。この国で売買を禁じられているものは幾つかあるが、抜け荷などさほど珍しいものではなく、大っぴらな取引をしていないだけである。事前に然るべき賄賂を渡す事で関所の改め方も免れるのがよくある手法だ。けれど、ここまで慎重にやるのはいささか不自然である。抜荷の常習犯は賄賂で後ろ盾を得ているため、昼間堂々と運び出すものだ。それを夜にひっそりと運び出すという事は、中野屋は賄賂を渡してはいないのか。だが賄賂も無しに抜け荷をするのは、あまりに危険で割りに合わぬ商いだ。中野彦二郎のような慎重な人間が、この程度の計算が出来ぬはずはない。
 ただの抜け荷ではない、そういう事なのか。
 果たして彦二郎を問い質すべきなのか、否か。針阿弥は即断する事が出来なかった。不振に思うのであれば、改めておくに越したことはない。しかし、それが原因で命を落とすような事になっては元も子もない。別段自分には彦二郎が何をしていようが奉行所へ上申する意志は無いが、彦二郎はおそらくそうとは思ってくれないだろう。保身を取るべきか、実を取るべきか。そのどちらにも利があり、一概にどちらが正しい選択と決める事が出来ない。
 そう倦ねていた時だった。
「おい、乞食坊主。見ていただろう?」
 突然、障子の向こう側から女子の突っ慳貪な声が聞こえてきた。廊下を歩く気配すら感じなかった針阿弥は飛び上がらんばかりに驚き、慌てて布団から体を起こし障子の方を向く。障子には月明かりに照らされ、はっきりと人の影が写り込んでいた。まだか細い女子の輪郭だ。
「……良仁か?」
「いい加減にそう呼ぶのはやめろ。ともかく、今のを確かに見たな?」
 お糸ではなく、その中は良仁のようである。しかし、これまでとは違って言葉こそ荒れているものの、立ち居振る舞いは非常に大人しいものだった。お糸に取り憑いた良仁は作法など知らぬ者だと思っていたが、実の所はそうではないのかもしれない、そのようにこれまでの印象を変えさせる素振りだった。
「う、うむ……。あれは盗人なのか?」
「いや、違う。中野屋の使用人だ。隠してはいるが、お前も見知った顔の奴だよ」
「こんな夜更けに、一体何をしておったのだ?」
「禁制の荷を運び出していたのさ。これから買い手の所へ受け渡しに行くのであろう」
「荷駄の中は何なのだ? 染物か? 茶か?」
「少しは頭を使え、坊主の癖に。そんなちゃちな荷など、代官に金を握らせれば幾らでも流せよう。そんなものではない。本来なら、ただの田舎商人では扱えないような代物だ」
「では、まさか鉄砲か?」
「多少は近づいたな。確かに戦が近いから、当たらずとも遠からずだ。荷の中はそういうものだ。そして、扱うには名分が無ければいけない」
 名分が必要な抜け荷。いや、口実が無いから抜け荷として扱っているという事か。だから、夜更けに人目を避けて運んでいる訳が。
「それで、荷の中身は何なのだ?」
「お前も一度は何処かで見たはずだ。負けた国はどうなるのか。あれは武田などは名人であったのう」
「それだけでは分からぬ。馬や具足などではあるまい」
「よく考えるんだな。それが分かれば、お糸の心中も見えてくる」
「お糸の心中……?」
 あの抜け荷の正体が、お糸が良仁を呼び寄せた理由に繋がるという事なのか。
 お糸は助けを求め、それに応えたと良仁は宣っている。物の怪の下賎な戯言とは思っていたが、仮にそれを額面通りに受け入れたとしたら。話の筋が繋がって来るのではないだろうか。
「良仁、お前は己を天火明命と言っていたが、まさか……」
 そう障子の向こうへ恐る恐る問い掛けてみたが、良仁は何も答えず静かに去って行った。今すぐに後を追えば、まだ間に合う。それは分かっているのだが、針阿弥は障子へ手を掛ける事が出来なかった。何となく、自分の突拍子も無い憶測を見透かされたような気がして、とても良仁に対してこれまでのような見下ろす態度を取れそうになかったのだ。