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 夕餉を済ませた後、針阿弥は自室にて彦二郎からの使いが来るのを待っていた。出来るだけ誰にも聞かれぬよう、と予め注文を付けたのはいいのだが、今になって考えてみれば、その状況は自分を人知れず葬るのにも適している。今まさにその準備をしているのではあるまいか。そんな疑念が少しずつ膨らみ始めていた。
「一雲斎様」
 しばらくゆるりと過ごす内、母家の方から使用人の声も聞こえなくなった頃、一人の人影が部屋の前に現れて立ち止まった。しんと静まりかえった夜更けでも尚、消え入りそうなほどのか細い声。お糸の声である。
「父上がお呼びでございます。私が御案内いたします」
「承知いたした。が、その前に。私はそなたにも話があります。手短に済ませる故、中へ」
 失礼します、と恭しく入ってきたお糸は、立ち居から障子の閉め方まで気品があり、それなりの名士の所へ輿入れしても差し支えないようにすら思えた。幼い頃から徹底的に躾けられたのだろう、両親の深い愛情が窺える所である。
「私にお話とは、一体何でございましょうか」
「うむ、実はお主に取り憑いたものの正体が分かってな。それで幾つか話しておかねばならぬと思ったのだ。時間も無い事だ。お糸、回りくどい事は止めて率直に答えてもらいたい。お主、彦二郎殿の何を見たのだ?」
「えっ、突然に何を仰られるのか……」
「隠し立ては無用だ。お主に取り憑いた妖物から、幾許かの事情は聞いておる。お主が物の怪を呼び寄せ心の隙をつかれるほどのもの、それを話して貰いたいのだ」
「私には何の事か分かりかねます……」
 やはりお糸は簡単には話そうとはしない。だが、人には話せない何かを見たという事実は態度に現れている。人は、全く身に覚えのない事を訊ねられると、普通はもう少し表情を綻ばすものなのだ。
「やはり話し難いか。それでは、私の方から話すとしようか」
「一雲斎様は、まさかもう御存知なのでしょうか?」
「いや、ただの推測に過ぎぬ。だから、お主が是か非かを答えるのだ。良いな?」
「そ、それは……」
「良いな、二度は言わぬぞ」
 些か酷ではあったが、針阿弥は敢えて強い口調でお糸に二の句を継がせないようにした。お糸の胸中はおそらく、沈黙か告発かで非常に強く揺れているだろう。それはどちらの選択でも正しく、どちらが悪いとは一概には言えない。だからこそ、たとえ脅迫してでも口を割らさなければ一生結論は出ず、良仁もまた消えてなくなりはしないのだ。少なくとも、今のままが最良ということはない。
「お糸、お前の父、中野彦二郎は人買いの中間をやっておるな?」
 うつむいたままのお糸は、小さな肩を更に小さく内へ窄め、膝の上で色白の手を赤くなるほど強く握り締める。その態度だけで答えは明白であるが、これは敢えて口に出ささなければ意味が無い。
「あのように人知れず営む辺り、戦利品としての質ではあるまい。大方、金貸しの利子か抵当という所であろう。代官の耳にでも入れば獄門も免れぬだろうが、大方鼻薬の一つも嗅がせて取り込んでおるのであろう。でなければ、ああも大行にはやれぬ。どうだ?」
「い、いえ、私は、その……」
「答えるのだ、お糸」
「は、はい……。その、詳しい仕組みなどは本当に存じ上げておりません。ですが、父がおそらくそういう事をしているのではないか、とは思いました」
「では、そうお前が思うのに至ったのは何故だ? 大方、商売の品をどこかで見たのであろう?」
「その通りです……。」
「では、それを話して聞かせよ」
 お糸はやはり話すことに躊躇いが消えぬらしく、何度も窒息した魚のように口を動かしては、何か言い淀み飲み込んでしまうのを繰り返した。これまで自分を育ててくれた父の恩義に背くような罪悪感があるせいだろう。その一方で不正を見過ごせぬ道徳心もあるのは、それだけ両親の教育が筋の通った素晴らしいものであったからに違いない。この人間の二面性をうまく飲み込むには、お糸はまだ幼すぎる。
「私がこのようになる少し前の事でした。ある晩、突然大きな物音が聞こえて来て、驚いて目を覚ましたので御座います。私は、初めは物取りかと思い、怖くてなりませんでした。しかし、中庭の方から何故か父の誰かを叱責する声が聞こえて。それで、そっと障子の間から覗き見たのです」
「中庭には何があった?」
「何台かの荷車が止まっていて、その先頭の荷車から荷箱がずれ落ちていました。周囲には黒尽くめで顔を隠した者ばかり。その中の一人が恐らく父なのだと思います。荷を落とした者を叱責しているようでした」
「荷箱の中は見たのか?」
「僅かに……蓋がずれておりましたので」
「何を見た」
「一雲斎様、もうお許し下さい。どうか、これ以上は……」
「何を見たかと訊いておる」
「それは……」
 ごくり、と音を立てて唾を飲み込む音が聞こえる。額に薄っすらと汗を浮かべるも顔色は蒼白で、小さくかたかたとしきりに震えている。よほど思い出したくない光景だったのだろう。それを口にさせるのは酷く心が痛むのだが、言わせねばならないのだ。告発をした、という事実を作らなければ、お糸の中に巣食う良仁は消えてなくならない。
「くつわを噛まされた娘でした……。私と同じくらいの。それが、偶然にも私と目が合ってしまって、怖くてすぐに障子を閉めてしまって……」