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 リチャード参事官が入室して来たのは、それから程なくの事だった。
「お待たせいたしました。初めまして、リチャードです」
 現れたリチャードは、まだ年の若い童顔の青年だった。振る舞いは如何にも上流階級で育ったらしい優雅さのあるものだったが、やや低い背丈と幼さの残る風貌から、実年齢と外見が一致しにくいタイプだと思った。
 レイモンド家の一族は皆、大使も憂慮するほど血の気の多い剣呑な気質の持ち主だと思っていたのだが。リチャードからは、そういった危うさからは大分遠い印象を受けた。
「フェルナン大使の私設秘書官、サイファーです。お初にお目にかかります」
「お話は既に聞いております。今回の騒動について、現地調査に参られたそうですね」
「はい。大使はまだアクアリアには着任したばかりで、まだ詳細な事は把握しておりませんから」
「そうですか」
 穏やかな表情で微笑を浮かべるリチャード。実家は富豪で、物腰が柔らかい好青年である。年頃の娘なら、簡単に眩んでしまうだろう。そんな下世話な事を思う。
「クレメント」
 その時だった。リチャードは、突然と険しい様子で傍らのクレメントに何事か囁くと、また微笑を浮かべこちらに向き直る。その切り替えの早さから、その笑みがまるで顔に張り付いているかのように無機質なものに感じてしまった。
「本件についてですが、サイファーさんはどういった予定をお考えですか?」
「予定ですか? 第三者の視点から隈無く調査し、事実をありのまま大使に報告するだけですが」
 そう答えた直後、クレメントがドアに内鍵を掛ける音が聞こえた。それはまるで、俺に聞かせるためにわざと音を立てたように思った。
「ここには我々三人だけ、この場限りのお話です。率直に答えて頂きたい」
「率直とは?」
「あのフェルナン大使に見込まれた方が、皆まで言わせるほど察しが悪い訳でもないでしょう?」
 リチャードの顔には、僅かに笑みが浮かんでいる。しかしその眼光の鋭さには、まるで自らの意に従わせようとする強い威圧感が見え隠れしていた。
 馬車の中で、大使に釘を刺された時の事を思い出す。調査は公平中立的に行っても、決してセディアランド側、特にリチャードの不利になるような事をしてはいけない。彼が言う率直とは、まさにそれについての確認なのだ。
「当館は現在、総領事は不在です。即ち、公使たる私が最高責任者。どういう意味かはお分かりのはず。調査の内容如何によって、セディアランドの隆盛が掛かってくる」
 しかしそれは、国益を盾にした詭弁である。リチャードが重要視しているのはセディアランドではなく、自分の立場である事ぐらいは察しが付く。そして、到着早々に面と向かって念入りに釘を刺して来るということは、よほど表沙汰にしたくない事情があるからだろう。セディアランド側の重過失に相当するか、若しくはそれ以上の何かか。もしかすると、大使の耳にも入れられないような内容なのかも知れない。
「私は一外交官にしか過ぎませんから。紺碧の都へ戻る際には予めお知らせ致しますし、調査で見聞きした事についても一切他言は致しません。報告内容につきましても、御希望とあらば事前に精査して頂ければ幸いです」
 すると、俺の言葉はリチャードの憂慮を晴らしてくれたのか、俄かに態度が和らいだ。
「結構。流石、フェルナン大使が引き抜いた程の方だ。話が早くて助かります」
 そう笑うリチャードに合わせ、俺も笑顔を無理に作って見せた。それはまるで、先程のリチャードと同じ張り付いた笑みと同じような気がしてならなかった。あまりに露骨な態度の切り替わりである。大使直属の外交官を手懐けておきたい、そんな思惑すら見え隠れする。簡単に胸中を悟られるほど凡庸な人物には見えないのだが、それは俺の存在をその程度に軽んじているだけなのかも知れない。
 これで調査報告は、リチャードが検閲したものしか提出が出来なくなった。伝えるだけなら口頭でも複写でも出来るが、その場合は内容についてリチャードが徹底的に否定するだろう。公使と端役では、信用も発言力もまるで比べ物にならない。どう理屈を並べようとも、俺はリチャードが認めた事実しか事実として報告出来ないのだ。
「調査については、逐次このクレメントに確認を取って下さい。御不明な事や困り事も、なんなりと」
「了解いたしました。よろしくお願いします」
 我ながら空々しい返事だと思いつつ、今は素直に従っておくしかなく、俺は頭を垂れる。それを見て得意気になるリチャードの表情が容易に想像出来る、俺はそれだけ悔しく思った。
 こんな状況下で、果たして俺の行う調査に何の意味があるのだろうか? 示談交渉に介入する事もしない以上、居るだけ無意味な気がしてならない。けれど、それでも大使は敢えて俺をストルナ市へ送り込んだ。それは何か他に意図があっての事だったのだろうか。
「滞在中は、当館をご自由にお使い下さい。客室も後ほど案内させましょう」
「助かります。町はアクアリア兵ばかりで、あまり出歩きたくはなかったもので」
「まあいずれ、陸軍とは示談交渉を締結させますよ。既に内容の摺り合わせは始まっていますから」
「そうでしたか。となると、私の調査もあまり意味がありませんね」
「いえいえ、フェルナン大使も事件の情報については把握しておきたいでしょうから」
 総領事館側とアクアリア軍側とで、既に示談交渉が進んでいる。俺は直感的に、これは事実とは異なるのではと考えた。もしもその通りならば、何故あのようにアクアリア兵が神経質になっているのだろうか。締結を待つだけで、もっと気が緩んでいてもおかしくはない。ましてや、総領事館を包囲するなど、明らかに敵対心を剥き出しにしている。
 どうにも隠し切れない、きな臭いものがある。報告として上げるかどうかは別として、まずは背後を洗い出す必要があるだろう。表面的な調査だけでは、何も重要な事は見つからないような気がするのだ。