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 拘置所は、寄宿舎からも更に離れた、総領事館の敷地内では真北に位置する場所の一画に、まさに隔離するかのようにぽつりと建っていた。一階建ての簡素な作りで、収容出来る人数もさほど多くはない事が、外からでも容易に見て取れる。おそらく、初めから大量の人間を拘置するような事態をしていないのだろう。総領事館内で裁判をする訳ではないのだから、被疑者や危険人物を一時的に隔離出来ればそれで良いのかも知れない。
 玄関となるドアの前には、警備役の武官の姿は無かった。クレメントがドアを鳴らすと、覗き窓からのそりと武官が顔を見せ、書類のやり取りを簡単に済ませ、ドアが開いた。このやり取りは、総領事館の環境と立地条件から、わざわざ武官をすり減らしてまで立たせる理由は無い、といった理由からだろう。
 クレメントと案内役兼護衛役の武官と三人で、拘置所の中を進む。基本的な構造は非常に簡潔で、武官達の居住区と各拘置部屋が二重の鉄格子で区切られたものだった。普段、武官達は居住区に詰めていて、必要に応じて見回りや訪問者の応対をするといった所だろう。内装は必要最低限で、壁は築材が剥き出しになったままである。来賓客のために飾る必要が無い事と、囚人に悪用される危険を防ぐためだろう。
「流石に此処は冷えますね」
「そもそも、長らく囚人は不在の建物でしたから。暖房の設備は居住区にしかありません。下手に火を使わせて、脱走などに使われる訳にもいきませんから」
 廊下の途中で会談を一階分ほど降りる。房は全て地下から一階までの吹き抜けになっていて、換気用の窓が非常に高い位置に設けられていた。脱獄の防止と、積雪により詰まる事を防ぐためだろう。
「こちらです」
 目的の房の前に到着すると、早速武官が鉄拵えのドアの鍵を開ける。まず武官が中へ入り、俺とクレメントがその後に続く。中の確認後、武官はドアへ回って立ち塞がるように直立した。普段は囚人はいないそうだが、手際の良さから察するに、訓練はしっかりと行っているらしい。
 房の隅のベッドに、体を小さくし座る男の姿があった。頭をがっくりとうなだれ、こちらが入って来た物音にもぴくりとも反応を見せない。
「ジョエル、こちらは大使私設秘書官のサイファー殿。今回の事件について、あなたから聴取をしたいそうです」
 クレメントが声を掛ける。するとジョエルはゆっくりと気怠げに顔を上げ、じとっとした力の無い視線をこちらへ向けてきた。
「ああ、クレメントさんでしたか。すみません、ここはどうにも時間の間隔に乏しくて。うまく眠れなくて、頭がボーッとするんです」
「薬が必要なら、後ほど準備させますよ」
「ええ、お願いします。ところで、私設秘書官でしたか? 大使と言うと、確かコーサス閣下でしたか?」
「いえ、つい最近に後任へ変わりました。今はフェルナン閣下です」
「ああ、そうでしたか」
 ジョエルはぼんやりとした表情で答える。まるで覇気が感じられない、心此処にあらずといった様相である。慣れない牢暮らしで、精神がすり減っているのだろうか。ふてぶてしい相手の威圧尋問なら慣れているが、逆に掴み所のない心の平衡を失いかけた相手は苦手である。性格上、どうしても人の心の機微には疎いのだ。
「早速ですが、事件の晩の事を聞かせて戴けますか。あの日、一体何が起こったのか。主観で構いませんので、経緯を出来るだけ細かく」
「はあ、ですが……」
「心配ありません。サイファー殿には、我々の会の事は知らせてあります。もちろん、此処で見聞きした事も外部には漏らしません」
「そういう事でしたら構いませんが……」
 ジョエルは曖昧な返事をしながら、視線を部屋の壁と天井とを行ったり来たりさせる。果たしてこちらの意図に応ずるのか否か、その意思表示すら曖昧ではどうにも己の姿勢も決めかねてしまう。一応、決闘同好会が違法な存在であるという認識はあり、俺を話して良い相手かどうか警戒する判断力も残ってはいる。神経症を患った訳ではないだろうが、正常であるとは今ひとつ断言し難い状態でもある。
 僅かに沈黙した後、ゆっくりとジョエルは再び話し始めた。その口調は見た目よりも、ずっとはっきりした澱みのないものだった。
「あの日の決闘は、三日前に突然決まったものでした。ですから、決闘直前になってとても不安で緊張していた事を覚えています」
「突然決まった? 普通はどれぐらい前に計画を立てるのですか?」
「最低でも一週間以上は前です。何せ、文字通り命懸けの真剣勝負をする訳ですから。体調も整えなくてはいけないし、集中力を高めるため、色々とトレーニングなどもします」
「決まった、という事は、決闘はセルギウス大尉の方から持ちかけられたのですか?」
「ええ、そうです。大尉は軍務の関係で随分決闘から離れていましたから、すぐにでも勘を取り戻したいと仰っていました。御存知の通り、会のメンバーのほとんどは日頃から多忙な事の多い方々です。自分は駐在武官ですから、決まった時間に従って仕事をする事がほとんどです。だから時間の自由も多く、それで声を掛けられたんだと思います」
 あのゴットハルト氏の子息ならば、日頃から武芸で体を鍛えるのは当然、という考え方の持ち主でも不思議ではない。決闘同好会へ入ったのもそのためだろう。逆にジョエルは、積極的に決闘を繰り返すというよりは、事前にきっちりと準備した上で計画的に立ち会う事が好きという印象である。
「いきなり決められた決闘でしたから、立会人の調整をする暇もありませんでした。それであの晩、いつもの場所で決闘を始め、その最中にたまたま私の剣がいい具合の所へ入ってしまって。後はもう、半ば放心状態でしたから。何が何だか、あまり良く憶えてはいません」
「決闘自体はどれだけかかったのですか?」
「大した時間ではないと思います。序盤の鎬の削り合いの事でしたから」
「そこで偶然、剣が入ってしまった、と」
「はい、そうです」
 何事にも、まぐれだとか幸運だとか、普段なら絶対に起こり得ないような事が起こってしまう偶然が存在する。命懸けの決闘にも、それは果たして起こり得る事なのだろうか。それを判斷するには、いささか俺は知識も経験も無さ過ぎる。
 ともかく、ジョエルが結果的にセルギウス大尉の命を奪った事は事実のようである。無論、彼が真実を語っているという保証はないのだが、現役の軍人を剣で仕留めてしまうなど、偶然以外ではとても起こり得ないだろう。すると、次に問題になってくるのは、その後の経緯だ。
「少し立ち入った質問になります。セルギウス大尉の体には、大きな傷が二箇所認められています。一つ目は体の正面、剣で斬られた後のようでした。二つ目は背中側の腰近く、何かでえぐったような跡がありました。この傷について心当たりはありませんか?」
「背中の傷ですか? ああ、それは……」
 突然と口篭り、声のトーンが一気に落ちる。それは明らかにこれまでの振る舞いとは違う、ジョエルの素ではないかと思える態度だった。
 言葉が淀むという事は、後ろめたい事があるという事。二人の決闘はやはり、ただの偶然で着いたものではない。