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「自殺、ですか」
 そうぽつりと呟き、クレメントは寄宿舎を見上げる。寄宿舎は五階建てで、屋上部分は柵で囲われている。飛び降りたのだとしたら、その柵を乗り越えての事だろう。此処から見ても大分高い柵ではあるが、決してよじ登れない高さではない。
 事件の加害者であり、唯一現場での出来事を知っている人間。それが自殺という形で亡くなってしまうとは。これではもはや、事件の真相に辿り着く事は不可能だ。
 しかし、この状況は明らかに不自然である。そもそもジョエルは拘留中だったはずだ。それがどうして、寄宿舎の屋上まで来る事が出来たのだろうか。まだ、自殺と断定するには早急過ぎる。もしもこれが他殺なら、決闘で何が起こったのか真相を知る人物がまだ居るという事になる。つまりこれは、ジョエルに対する口封じだ。
「ジョエルはおそらく、事件の事を悔やんでいたのでしょう。きっと、これが精一杯の償いに違いありません。サイファーさん、この件をゴットハルト氏にも伝えましょう。御子息を死に追いやった者は、我が身を引き替えにして謝罪したと」
 唐突にクレメントは、使節の事にまで言及してきた。普段なら、二言目には公使への確認をと言って保留するのだが、今回は明らかに独断である。
「どういう事でしょう?」
「そのままの意味ですよ。ジョエルは、同好会の会則を破ってセルギウス大尉にとどめを刺してしまった。その事が原因で、アクアリア軍に当館が包囲されてしまった。その責任を感じた事による自殺と考えれば、筋が通るのではないでしょうか? 不正を恥じたとも解釈出来ますし、外交問題を引き起こした重圧に耐えられなかったとしても自然です。この状況をうまく説明すれば、ゴットハルト氏も納得して戴けるはずですよ」
 確かに一見すると、それが真実のように思う。けれど、ジョエルが独房を抜け出た理由は、それでは説明が付かない。
 そもそも俺は、クレメントの口調に強く不信感を抱いていた。クレメントの論調は、明らかに全ての原因をジョエルに押し付けようとしている。リチャードの立場を守らなくてはならない以上、確かにそれは当然なのだが、俺にはどことなく事実を隠しているようにしか思えない。
 俺はリチャードの立場を守らなくてはいけない。それは認識しているし、納得もしている。けれどそれは、真相を究明しないという事ではない。大使から調査を命じられている以上、事実は事実として正確に把握しておかなければならないのだ。
「クレメント、あなたは……!」
 突然、ドナが声を荒げてクレメントを真っ向から睨み付けた。その姿にはクレメントのみならず、俺も少なからず驚きを隠せなかった。これまで冷然としていた彼女が、此処に来て激情を露わにしたのだ。普段とのギャップもあり、ドナが如何に憤慨しているのかがひしひしと伝わる。
「何か問題でも? 私はこの事態をいち早く解決したいし、それはあなたとて同じはずです。これ以上長引かせれば、公使の立場も悪くなっていきます。それを望んでいる訳ではないでしょう?」
 ドナは口を噤みながらも、尚も強くクレメントを睨み付ける。言葉では理解出来ているが、内心は納得がいかないという素振りだ。
「いや、解決ではないでしょう。この状況はあまりにおかしい。まずジョエルはどうやって此処に来たというのです? 彼はまだ独房に入れられていたはずです」
「大方、見張りが施錠を忘れたか何かしたのでしょう。とにかく、これは自殺です」
 どうしてもジョエルの死因を自殺にしたいらしい。調査した結果、自殺だったのなら構わないが、まだ発見の段階で断定するのは不自然だ。変死ならばもっとつぶさに捜査を行うべきで、一等理事官がそれを知らないはずはない。まさか、事態を解決するために、クレメントがジョエルを死に至らしめたのではないだろうか?
「クレメント理事官! こちらでしたか!」
 再度、食い下がろうとした時だった。事件の発生より大分遅れた武官達が、慌ててこちらに駆け付けて来た。普段は見回らない場所で迷ってしまったのか、皆が酷く息を切らせている。
「遅いですよ。警備の者は何をしていたのですか」
「申し訳ありませんでした。別件で手間取っておりまして。それで、これは……」
「ジョエルです。どうやら寄宿舎の屋上から飛び降りたようです」
 すぐさま武官達が遺体を確認し始める。ジョエルもまたこの総領事館の武官であり、彼らとは同僚である。顔見知りならば、如何な心境なのか。そう思っていると、ふと一人の武官がそっとクレメントの元へ歩み寄った。
「あの、理事官。実はジョエルの件ですが……」
 ここからでもほとんど聞き取れないほど小さな声で、武官はクレメントに何事かを耳打ちする。するとクレメントは訝しげに眉を潜め、口元を歪めた。何か難題にぶつかった時にするような表情である。
「そうですか……。私も確認へ参りましょう。ここはお任せします。公使には、私からお伝えしますので」
「分かりました」
 そう言った後、クレメントは何処かへと足を向けようとする。すかさず俺はそこを呼び止めた。
「待って下さい。何があったのですか?」
「拘置所です。どうやらジョエルは、かなり無茶な手段を取ったようです」
「どういう事です?」
「詳しくは分かりませんが、武官が三名負傷、それも一人は重傷のようです」
 確か拘置所には、何名かの武官が常駐していた。おそらく彼らと交戦したという事だろう。しかしそれは、通常では有り得ない出来事である。
「ジョエルは、力尽くで脱獄したという事ですか?」
「おそらくは。彼らも身内だからと油断があったのでしょうが」
 本当にそうだろうか。武官を三人も負傷させてまで脱獄して、何故自殺を選ぶのだろうか。自殺を決心した人間が、そこまで気力が漲っているとはとても思えない。
 もしも、クレメントが事態を解決するためにジョエルを利用した、という仮説が事実だとしたら。脱獄の手引きしたのはクレメントだろう。だが、その青図を描いたのはリチャードと考えるのが妥当だ。今回の事件で割を食いそうなのは、彼だけなのだから。そもそも、今になって思い返してみれば、あの時のジョエルの態度は明らかにおかしかった。自分が殺したことを認めたのに、背中の傷について口篭るのは何故か。こちらの心象を害してまで黙秘する理由などないはずである。
 セルギウス大尉の背中の傷は、何か重要な手掛かりなのかもしれない。もしかすると、セルギウス大尉を殺害したのはジョエルではなく、ジョエルは真犯人を知っていながら口に出せずにいたのではないか。
 では誰が真犯人か。
 この状況で一番得をする人物。
 それはやはり、リチャード公使に他ならない。
「私も行きます。宜しいですね? 流石にこれだけの事になると、閣下に報告せねばなりません」
「ええ、それは勿論。さあ、行きましょう。軽傷の武官達は現場に残させていますから」
 一旦断られるかと思ったが、クレメントはすんなりと同行を了承する。これは、俺が調べても絶対にぼろは出さないという自信の現れなのだろうか。
 俺はリチャードの経歴を守らなければならない。しかし今は、それを思い切り踏み潰してやりたい、そんな衝動に駆られそうな心境だった。