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 ゴットハルト氏との会談を終え、新館に報告へ向かうと、今度ロビーで待ち受けていたのはドナだった。また、正門で武官とアクアリア兵がざわついた所を聞きつけたのだろう。特に今日は、昨夜にあんな事件があった翌日である。これまで以上に彼らは気が立っているようだ。
「今戻りました」
「お帰りなさい。只今、公使は執務室で別件の用事が入っております。それまで、私の執務室へ」
 公使ともなると、やはり日中は多忙を極めるのが当たり前になっている。フェルナン大使の場合、周囲のスタッフに様々な役割を分業し、本人は楽に構えている事が多い。けれど、それは大使として潤沢に使える予算があるからなのだろう。雇える人数には大分差がある印象だ。
 ドナの執務室へ通されると、そこは相変わらず機能然とした応対にはとても向かない一室だった。思い返せば、まだ最前線に居た検察官時代の部署も、このような書類や資料ばかり溢れた部屋だった。広さも作りも全く別ではあるが、どこか懐かしさを感じる雰囲気がある。
「ゴットハルト氏は如何でしたか?」
「ええ、一応の説明はしました。もっとも、向こうも既に情報は集めていて、改めて私が説明しなければならない事はありませんでしたが」
「そうですか。それでは、ジョエルの死因は自殺だったと納得して頂けたのでしょうか?」
「いえ、状況からして既に無理でした。それにもう一つ、問題があります」
「問題?」
「自殺は不自然だと考えているのですが、それは他殺の可能性が高いという事、そしてその実行犯についてですが……」
「はい? 何でしょうか」
 思わず言葉を濁してしまい、ドナが淡々と話の続きを問う。リチャードの腹心でもある彼女には話すべき事なのだが、どうにも心情的には打ち明けたくはない種類の話である。そのせいで舌が続きを話す事を躊躇った。
「不躾な質問をする事を許して頂きたい。公使が何者かに恨みを買う、そういった心当たりはありますか?」
「恨み、ですか?」
 流石に想定外の言葉だったのか、ドナはやや面食らったような表情を見せる。しかし、すぐに平素の表情へ戻り、上擦りも消してしまった。
「公使という立場上、公務を通して恨み逆恨みの一つ二つはあります。無論、いずれも望まぬ形である事は言うまでもありません。それに、直属の部下である私達も把握している件はありますが、出来る限り上申はせず内々で対応いたします。公使の心労を減らす事も、我々の重要な業務ですから」
 若い身で公使ともあらば、様々な問題を抱えてしまう事になるのだろう。ただでさえ、外交の世界は多種多様の思惑が渦巻いている。それに飲み込まれた怨嗟の声など、いちいち伝えていては切りがないのかも知れない。ただ、フェルナン大使にはそういった話はほとんど聞かない。それはおそらく、年季からくる立ち回りの差なのだろう。
「それでは、この総領事館内で、それも実際に行動をしそうな人物で絞ることは出来ないでしょうか」
「人員に関しては、ジャイルズの方が詳しいです。彼が此処の在籍が一番長く、人事も扱っていますから。それより、今お話した事は、ゴットハルト氏がお訊ねになったのですか?」
「ええ。彼は、反公使の人物若しくは組織が総領事館内にあり、彼らが公使の立場を悪くするためにジョエルを殺したと推測しています」
「大使直属の部下であるサイファー殿の訪問に合わせた、という事ですか。なるほど、下手に対処すれば失脚も免れないやり方ですね」
「ですので、クレメントさんにはジョエルの件を自殺で片付けてしまわぬようにお願いしたい」
「ええ、その件については同感です。検死はこれからですが、変死事件として捜査させるつもりでいますから。ただ、公使のお立場も考えますと、あまり本格的なものは望めません。流石に館内にはかなりの動揺が広がっていますから」
「承知の上です。捜査自体は我々でも出来ますから、そういった形で内々の捜査へシフトするのが良いかと思います」
 公使の立場を考えれば、あまりに表立った事件捜査は行えない。ジョエルが自殺したという事実をいつまでも職員達に認識させるのは、徒に不安感を増長させるからだ。だが、職員達に遠慮していては捜査が思うように進まないのも事実である。痛し痒しといった所だろう。
 そこまで話を詰めていた時だった。突然部屋のドアが外からノックされる。ドナはすぐに返答し、入室を促す。中へ入ってきたのは、一人の若い青年だった。確か名前は、ジャイルズだっただろうか。あの日の会食の際、決闘同好会のメンバーの一人として紹介された人物だ。
「ドナ書記官、公使がお呼びです」
 どうやらリチャードの公務が一つ片付いたらしい。分かりました、と短く答えたドナは、すぐに手近に揃えていた資料を抱えて廊下へ向かう。俺もすぐにその後へ続こうとする。しかし、不意に後ろからジャイルズに肩を叩かれ、その場に留められた。
「サイファー殿にはお話しがあります。後から参りますので、どうぞお先に」
「分かりました」
 ドナは一礼した後、執務室から出て行く。リチャードの執務室は、此処からすぐ側にある。合流にはさほど時間もかからないだろうが、一体何の話なのか。これまでさほど接点が無かっただけに、話の長短が推測出来ない。
「ジャイルズ理事官でしたか。確か、このように面と向かってお話するのは初めてでしたね。それで御用件は?」
 するとジャイルズは、ドナが執務室から遠ざかった事を確認するや否や、元々鋭かった眼差しを更に細め、まるで威圧するかのように俺を見据えてきた。突然露骨な敵意を向けられたような気がして、俺は俄に背筋を緊張で強張らせる。全くの無防備だったため、それは半ば不意打ちに近いものだった。
「春のきざはし、という本を御存知ですか?」
「えっ?」
「春のきざはし。作者はアスルラ人の元議員で、昨年に西国を中心にとある理由で一時話題になった小説です」
 意外な指摘に声が詰まる。セディアランド人で北方に長く勤務しているはずのジャイルズが、何故そんな本の事を知っているのか。あれは、誰も知るまいと見越した上での事だったのだが。
「それは……ストルナ市までは長旅になるという事で、同僚に幾つか貰った本の中にあっただけです」
「しかし、あなたが奥さんに宛てた手紙は、明らかにその本から本文を引用したものです。何か文面以外の他意があるのでは?」
「そもそも、思い違いという事はありませんか? あれはちょっと話題になっただけの、ありふれた三文小説ですよ。似たような文面だって、どこにでもあるはずです」
「春のきざはしが話題になった理由は、露骨で猥雑な性描写に拠るものです。私は、話題性のある事柄は全て取り寄せて見聞します。公使が晩餐会等で世間の話題に困らぬよう、補佐するために必要ですから。春のきざはしを読了したのも、その一環です。話題にするために読む資料ですから、あの特徴的な文章構成は忘れません」
 そう断言するジャイルズの表情は、確固たる自信に満ち溢れている。例え俺がどれだけ口先で否定しようと、全く揺るがないであろう意志の強さを感じる。
 あの手紙は、完全に見透かされているのか。ならば俺をここに引き留めたのは、拘束するためなのか。それこそ、ジョエルのように。
 腰に差した短剣の重さを、膝で確かめる。ジャイルズは決闘同好会の会員であり、実戦経験は俺と比べ物にならないほど豊富である。素手だったとしても、俺の付け焼き刃の戦い方が通用するのかどうか、賭けにしてはあまりに分が悪過ぎる。
 勝つには先制するしかない。だが後々の事を考えると、短剣をそう簡単に抜く訳にもいかない。
 どう動かしていいのか分からない右手を震わせ、逡巡していた時だった。不意に足を踏み出したジャイルズは、意外にもそのまま部屋のドアを開け外へ出てしまった。
 今ここで何かをするつもりではなかったのか。直立したまま同行を見ていると、ジャイルズはドアを閉める前にもう一度、あの鋭く冷たい視線で俺の方を睨みつけてきた。
「本当に他意があったのかどうかは、敢えて問いません。返答もして頂かなくて結構。ただし、これだけは留めておいて頂きたい」
 そう言うや否や、ジャイルズは右手を胸の前で一度軽く振って見せる。すると、いつの間にかその手には小さなナイフが現れた。袖に隠し持つ、護身用、又は暗殺用のナイフだ。
「私は手段を選ばない人間です。公使に害をなすのであれば、それなりに覚悟を決めて下さい」
 暗殺者にしては気が逸り過ぎている。だが、手段を選ばないというのは本当だろう。少なくとも、そう思わせるほどの気迫が彼からは感じられた。
「そういう意図はありませんよ。断じて」
「かつて、自分の上司を告発しようとした男の言葉を信じろと? 人を背中から刺すような人間を」
 なるで吐き捨てるようにそう言い残し、ジャイルズは会話を打ち切りドアを閉めた。
 足音が遠のくまで、俺は身動ぎ一つせずに立ち尽くしていた。ジャイルズの気配が消え去ってからようやく溜息を一つつくと、額にうっすら滲んだ汗を拭った。
 ジャイルズはリチャードの護衛役を務める男なのか、まさか武器を隠し持っているとは思ってもみなかった。口数が少なく寡黙であるため冷静な人間だと思っていたが、人よりも熱くなりやすい過激なタイプのようである。どうしてリチャードは、ああいった物騒な人間を側に置くのか。生まれ出が人とは違うだけに、人選はもっと慎重になるべきではないのか、老婆心ながらそんな事を思った。