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 日の落ちる時間の早いアクアリアでは、夕食の時間もそれに併せたものになっている。習慣のせいか、暗くなると腹が空く者が多いのだろう。
 俺は少し時間をずらし、人が疎らになってから食堂へ入った。食堂は相変わらず暖炉を煌々と燃やし、上着など着ていれば汗ばむほど温められている。外の切りつけるような寒さと、室内の汗ばむほどの暖かさ。この温度差にはいささか疲れを覚える。
 カウンターに並ぶと、厨房のブルーノが目ざとく俺を見つけ出し、自分が運ぶからと席へ促された。大使の私設秘書官が総領事館へ来ている事は、職員達の間では半々ぐらいには知られている。だがここに来ると、全ての人間が俺の事を知っていて注目し、嫌でも目立ってしまっているような気がしてならない。
「いやあ、お待たせしました。外は寒かったでしょう」
 やがてブルーノは、ワゴンを押しながら俺の座るテーブルへ現れ、明らかにメニュー外の料理を嬉々として並べ始めた。彼の親切心からのものだろうが、傍目にはまるで大使秘書官が厚かましい要求をしているように見える気がした。人の好意とはこうも断り難いものなのか、内心そんな事を思いながら苦笑いした。
「さ、まずはこれをどうぞ。ストルナの地酒です。温まりますよ」
 ブルーノはこちらの事など何の構いもなく、一方的にグラスを持たせ、何やら匂いのきつい酒を注いだ。グラスを近付けなくとも分かるほど、かなりきつい酒のようである。アクアリアの寒冷な気候をしのぐため、こういった強い酒が何処でも作られているのだろう。一口そっと含んでみると、意外に甘味があり軽い印象があった。今度は普通に飲んでみると、途端に喉が焼けるような熱い刺激が走り、思わずむせそうになった。口当たりは良いが、本当に度数がきつい酒のようである。
「では、僕も頂きます。ああ、仕事はいいんですよ。主任はいつも早上がりですから」
 そう言ってブルーノは、嬉々として酒を手酌で飲み始めた。こちらは流石に飲み慣れているらしく、まるで水でも飲むかのように、次から次へとグラスを空けてく。
「しかし、大変な事になりましたね。まさか、自殺だなんて。いえ、実は昨日食事を運び入れたのは私なんですよ。まさかあれが、最後の食事になるなんてねえ」
「食事はいつも、あなたが運んでいたのですか?」
「いえ、普段は下の者にやらせてます。昨日はたまたま僕が手空きだったんでね、時々行くことはありましたよ」
「あの拘置所は、誰でも出入りが出来るのですか?」
「担当武官に話をすれば、入れるんじゃないでしょうか。何しろ、あそこが使われた事自体が何十年ぶりの事だそうですから。厳密な運用ルールとか、無いに等しかったんじゃないですかね」
 通常、留置所や拘置所のような場所は、外部との接点を極端に制限する。脱獄や証拠隠滅などの連絡が出来ないようにするためだが、それは建物の構造だけでは絶対に防ぐことは出来ない。させないための運用が重要なのだ。
 もし、訪問目的を告げるなどの手続きだけで、拘置所の中に入れるのだとしたら。この総領事館には、反リチャードの人物が存在するが、それは特に拘置所に出入りできるだけ武官に限らない事になる。だが逆に、ここ数日の間にあの拘置所へ出入りした人物が全て、その可能性がある事にもなる。
「昨日食事を運び入れた時は、どんな様子でした?」
「まあ、普通に召し上がってましたよ。残さず綺麗に平らげて貰って。以前に比べると食欲も取り戻したのかなと、素人ながら思って安心していたんですけどねえ」
 昼間に聞いた武官達の話では、ジョエルは日に日に食欲が見て取れるほど衰えていたはずである。しかし、昨夜の時点では普段通りの食欲だった。それは、脱獄に備えて、あらかじめ体力を蓄えるためと捉えられる。ここ最近の間に、それを決意させる何かがあったのだろう。ジョエルは本当に脱走を企てていたのか、
それとも最初から自殺が目的立ったのか、はたまた反公使派の何者が謀殺したのか。ともかく、事件が起こるきっかけがあったのは間違いないだろう。
「ところで、話は変わりますが。ジャイルズ理事官を御存知ですか? 何でも、この総領事館に長く勤めている方だそうですが」
「ああ、はいはい。知っていますよ。僕が此処に来たときにはもういらっしゃいましたから」
「では、リチャード公使が着任されるよりも前から?」
「そうなりますね。まだお若いですけど、仕事は抜群に出来るエリートですから。この近辺の名士にも顔が利く方ですよ」
「彼はストルナの出身なのですか?」
「いえ、サイファーさんと同じセディアランドですよ。ほら、レイモンド家。あそこの養子なんです」
「レイモンド家とは、つまり公使の?」
「ええ、そうです。まあ兄弟と言っても、ああいう家柄ですからね。実際は主人と召使いみたいなものです」
 しかし、あのジャイルズの様子を見る限り、本人がリチャードに心酔し自ら望んで仕えているように感じた。資産家が慈善活動の一環で、孤児を養子に迎え入れる事は良くある話だ。だが、彼らの関係はそれだけのものではないのだろう。
「それに、実は総領事館にはレイモンド家由来の方が割と多いんですよ。レイモンド家が出資した孤児院出身の者や、レイモンド家の親類筋、分家の方々など。公使の腹心のクレメント理事官が、確か分家筋の出身だったはずですよ」
「つまり、ここは公使の身内で固められているようなものですか」
 幾ら公使が強権を与えられているとは言え、物事には限界がある。それを限り無く可能にしているのは、総領事館内を身内で固めているからだろう。閨閥に類する話である。
 クレメントは分家筋、ジャイルズは養子、ドナは愛人関係、リチャードの腹心はいずれも身内で構成されている事になる。だからこそ、決闘同好会などという不法な会を成立し得たのかも知れない。
 そうなると、あと気になるのはジョエルだ。会員だったセルギウス大尉はアクアリア軍の人間だからさておき、ジョエルは総領事館の武官である。これも、何かしらの縁故採用なのだろうか。
「ジョエルは、何か公使とは関係しているのですか? 武官の縁故採用枠のようなそれと」
「まさか! まず有り得ませんよ。外交官ならともかく、仮にもレイモンド家縁の人間がただの武官になるなんて」
「では、一般の公募から来たのでしょうか」
「まあ、そうだと思いますよ。正直、僕は仕事上、人の顔と名前は良く知っていますが、大概の職員は今回の事件で初めてジョエルという人間を知ったはずです。それくらい、平凡な武官だったんですよ、彼は」