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 一夜明け、俺は朝早くに起きて食堂へと向かった。まだ朝も早いという事もあり、この時間の食堂内は閑散としている。考え事には打ってつけの環境ではあるが、相変わらず名案らしい名案は浮かんでは来ない。
 食事を済ませ、のんびりとコーヒーを飲みながら、窓の外の景色をぼんやり眺める。今日は大粒の雪が降っていて、この様子ではまた大分積もりそうである。暖房をふんだんにたいている室内では平気だが、外は体の芯まで凍り付きそうに見える。セディアランド人がアクアリアに来ると、そのほとんどが寒さの影響で自然と体重が減っていくそうだ。それだけ厳しい環境という事なのだが、そんな土地で生まれ育ったアクアリア人の気質は、やはり同様に厳しく頑ななのだろうか。凍り付いた鉄のようなゴットハルト氏を溶かす方法など、本当は全く存在し得ないのかも知れない。
「おはようございます」
 不意に声をかけられ振り替えると、そこにはクレメントの姿があった。
「おはようございます、今から朝食ですか?」
「ええ。ただ、あまり食欲はありませんので」
 向かいの席に腰を下ろしたクレメントは、大振りのマグに野菜スープを注いだものをテーブルに置いた。彼の朝食はそれだけのようである。起き抜けで食欲が無いのではなく、心労が原因だろう。未だアクアリア軍との問題が解決していないのだから仕方がないのかも知れないが、当初より更に痩せてきたように見えるクレメントは、何より健康面が心配である。公使の調整役は多忙だから仕方ないとしても、そろそろ休息を取らなければならないだろう。
「サイファーさんは、大使館の方は大丈夫でしたでしょうか? いえ、無理に引き止めた私が訊く事ではないのですが」
「大使には調査が難航しているので、と手紙には伝えていますから。ご存知の通りですが」
 リチャードの執務室で手紙を検閲した一件を持ち出すと、クレメントはより表情を青ざめさせ、血色の悪い唇を僅かに噛んだ。特に意識はしていなかったのだが、嫌味か皮肉かに聞こえてしまったようである。よほど精神的に追い詰められているのか、物事が悪い方へ聞こえてしまうのだろう。
「とにかく、私はゴットハルト氏の件が片付くまでは滞在しますから。微力ながらお手伝いいたします」
「そう言っていただけると助かります」
 クレメントは力無く微笑みながら、すっかり湯気の薄くなったスープを一口二口と啄むように口にした。見ていて本当に哀れだと思わざるを得ない姿である。彼はこちらに気を使っているつもりだろうが、これではむしろこちらが気を使ってしまう。下手な事を口にすれば、それだけで卒倒してしまいかねないほどの衰弱ぶりだ。
 会話を続けるのも一苦労だ。そんな事を内心で思いながら苦笑いが漏れるのを抑えつつ、引き続きコーヒーを飲む。
 クレメントはしばらく静かにスープをすすっていると、突然何かを思い出したように、マグを勢い良くテーブルへ置いた。
「サイファーさん、この後に一緒に来て頂きたい場所があります」
「何でしょうか、突然。一体どちらへ?」
「セルギウス殿に専用に割り当てられた客室です」
「客室? いえ、それは構いませんが。ですが、どうして今頃になって? 決闘の事件の後に調査はされなかったのですか?」
「これまでは、一応被害者という事もあったため、配慮して部屋の捜索は行わずにおりました。遺族の立ち会いの元で行うのが礼儀だと思っていましたから。ですが、もはや配慮している場合ではありません。何かしら手掛かりになるような物が見付かれば、それに越した事はありませんし」
「確かにそうですが……。何故、私に?」
「ジャイルズは神経質になっているため、万が一デリケートな物が見付かった場合は何をしでかすか分かりません。そしてドナは、正直過ぎるきらいがあるため、まず公使に伝えてしまうでしょう。その点、サイファーさんは柔軟なお考えの持ち主ですから、私の胸中も理解して頂けると思っています」
 要するに、ジャイルズが逆上するような物が見つかる可能性があり、尚且つ公使には無断で調べに行くという事なのだ。信憑性も定かでは無くいささか不安感は否めないものの、クレメントの言い分にも一応の理がある。手段を選んではいられない現状、藁をも掴む思いで彼の提案に乗るのも良いだろう。
 その後、俺はクレメントの案内で目立たない新館の裏手側へ向かった。裏口には武官が一人立っているのみで、クレメントが顔を見せるだけで通した。そこから細い廊下を辿り、中央の広い階段とはまた別の狭く質素な階段を登っていく。これは非常時の避難用の階段で、耐火性耐久性に優れた材質で出来ているらしい。その反面、見た目の悪さから裏手の方にしか使われていないそうだ。
 階を三つほど上がって幾つか扉を通り、ようやく客室用フロアの広い廊下へ抜ける。俺が寝泊まりしている宿舎とは違い、絨毯や美術品など内装に力が入っていて、実に豪奢な印象を与えた。客室の扉も磨いた黒檀に精細な彫り物を施したもので、恐ろしく金がかかっている事が分かる。アクアリアほどの大国の総領事館ともなると、やはりこのぐらいの品格を求められて当たり前なのだろう。
「こちらです」
 やがてクレメントが廊下の途中にある客室のドアの一つの前で止まった。これも他と同じく黒檀のドアで、取手は獅子の形をした銀が使われている。まだ俺が監察官だった頃、財産隠しの手段として現金を貴金属に変えて巧妙に隠していた一件を思い出す。あれはただの税金逃れだが、これは純粋に内装の一部としての目的で拵えたものだ。やはり国賓級が訪れる事もある建物というのは、そもそも考え方の次元が違う。
 クレメントは上着の中から鍵を取り出すと、ドアのロックを素早く外して中へと入っていった。俺も周囲を確認しつつ、その後へと続く。
 それにしても、予め部屋の鍵を用意していた所を見ると、クレメントは例え俺に断られたとしても一人で入るつもりだったのだろう。俺を誘ったのは、効率良く家探しをするためなのか、それとも共犯者を作ることで心細さを紛らわせるためだったのか。