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 ジョエルの手帳は事態を好転させるかと思ったが、逆に悪化させた上にゴットハルト氏の態度も硬化させてしまった。また次の手を探さなくてはいけなくなったが、正直なところこれ以上は思い付ける自信がない。そして何より、ドナをセルギウス大尉謀殺の犯人と思い込んでいる事が厄介だ。リチャードならば堂々と拒否する事が出来るが、二周りも職位が下がるドナでは、途端にハードルが低くなる。この件を報告したとして、クレメントやジャイルズなら、それで済むなら幸いとばかりにリチャードを後押しするだろう。アクアリア軍が撤退し、レイモンド家にとっての厄介者も居なくなるのだから、一見理想的な解決策に思える。けれど、そのためにドナを生け贄にして事実関係に耳を塞ぐのは、私感としてどうしても避けたい方法だ。
 どう伝えるべきか、そう頭を悩ませながらリチャードの執務室へ入る。するとそこには、ドナの姿しか無かった。
「お帰りなさい。会談は如何でしたか?」
「ええ、また厄介な事になりました。ところで、公使はどちらに?」
「どうしても外せぬ公務のため、席を外しております。もう少々でお戻りになるはずですので、一旦休憩いたして下さい」
 アクアリア軍の包囲の事もあるが、リチャードの公使参事官としての日常業務が無くなる事はない。突如公務に引っ張り出される事があっても、不思議ではないだろう。
 ドナに促され、応接スペースのソファーへ腰を下ろす。体が深く沈む柔らかなソファーは実に心地良く、思わずこのまま眠ってしまいたい心境にすら駆られた。そして、全身を包むような柔らかさが、不意に紺碧の都にいるルイの肢体を思い出させる。結婚した後も長く家を空ける事はあったが、今回ほどそれが長く感じる事も無いだろう。寂しさすら込み上げて来そうになる。
「どうぞ」
 ドナが淹れたばかりのお茶をテーブルの上に置いた。俺は礼を述べながら体を起こし、良く暖まったカップを手に取る。
「もしかして、奥様の事をお考えになっていましたか?」
 ドナは差し向かいのソファーに腰を下ろしながら、唐突にそんな事を問い掛けて来た。
「何故ですか?」
「女性の事を考えている時の男性の顔は、大体同じですから」
 そんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか。思わず頬を押さえて、歪みがないかと形を確認してしまう。
「その、まあ、随分と空けていますから。紺碧の都には越してきたばかりだったので、日常生活にも慣れていないでしょうし」
「政治的な事情で結婚されたのに、奥様想いなのですね」
「それだけで一緒になった訳ではありませんから」
 外交の世界は案外狭く、俺達の話はあっという間にあちこちへ広がってしまった。だから、何処へ行っても必ずこの事は訊ねられる。今ではすっかり慣れても来たが、答えはいつも必要以上に慎重になる。こういった解決策しかなかった事に、未だ負い目を感じているせいだからだろう。ルイ自身は全くそうは思っておらず、俺だけが勝手に負い目に思っているだけだが。
 ふと、ドナとこういった世話話をするのは初めての事だと気が付いた。あまり砕けた話をする印象も無く、私的な会話をする機会も無かったせいだろう。ならばこの機会にと、そう言うあなたの方はどうですか、と訊ねかけ、それはあまりにデリケートな話題だと言葉を飲み込む。ドナとリチャードの関係は、俺達のような穏やかなものではない。閨閥について軽々に口を挟むことは慎むべきである。
 執務室の片隅に掛けられた柱時計が、組み込まれたからくりと共に時刻を知らせる。精巧な時計は数が少なく、その機工だけでも大金が必要となる。その柱時計は金銀の細工まで施されており、一体どれだけの金額になるのだろうと、半ば呆れにも似た心境になった。
「十時半ですか。どうやら、少々予定が押しているようですね。お茶をもう一杯如何ですか?」
「ええ、戴きます」
 リチャード達の業務は予定よりも立て込んでいるようである。午前中から分刻みに公務をこなさなければならない多忙さは、俺が普段見ているフェルナン閣下とは大違いである。大使も公使も、俺から見れば遥か天上の存在だが、そこにはまだ大きな差があるのだろう。
 ドナはティーポットにお湯を注ぎ、手慣れた手付きでカップにお茶を満たす。実に手際が良く、それでいて手付きにも品があるように思った。立場上、こういった事にもそれなりに出来ていなければならないのだろう。
「どうぞ」
 目の前のテーブルに、お茶を注がれたカップが差し出される。何気ない仕草に見えて、ソーサーの音を立てないばかりかカップの中のお茶に波紋一つ無い。彼女もまた決闘同好会の会員であり、一般人よりも武芸に秀でている。それがこういった芸当を可能にさせるのだろうか。
 自分も少しは体を鍛え直し、何か武術の一つでも学んでおくべきだろうか。そんな事を考えながら、カップに手を伸ばしたその時だった。
「ん?」
 ソーサーから離れたドナの右手、その掌に白い瘤のようなものが浮き出ているのが目に止まった。
「あの、それは?」
 思わず問いかけ、俺の視線に気づいたドナは咄嗟に右手を左手で覆い隠した。
「すみません……。少々見苦しいものですので」
「あ、ああ、こちらこそ無神経でした。タコか豆ですね。剣を振っていれば仕方ないでしょう」
 あまりに物珍しくてつい声をかけてしまったが、少し考えれば決闘同好会で武器を奮っているのだから、そのくらいは手にあっても不思議ではない。むしろ、若い女性がそういうものを手に作ってしまった事を気にかけるべきだった。
 見て見ぬ振りをすべきだったか。そう思いカップを手にする。が、ふとある事を思い出した。それは、かつてセディアランドの聖都で監部への配属が決まる前の頃だったか。同窓生に、同じようなタコを作っていた男が居て、そのせいでろくに物が持てず食事にも苦労していた。男の場合は多少の傷など何ら恥ずかしくはないが、生活に支障が出るのであればまた別の話だ。
 ただ、彼が掌にタコを作った原因、それは剣では無く弓矢だった。弓へ番える時、矢筈が掌に当たり傷を作る。そう、それは剣などの柄を握った時とはまた違う怪我だ。