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「双方共に下がって下さい!」
 悲鳴のような震えた叫び声を上げたドナは、部屋の中央へ飛び込むや否や、抱き抱えていたそれを高々と構えた。それは、身の丈ほどもある大弓だった。普通の大弓ならば、大人でも弦を引くことが出来ないほど硬い。だがドナは、矢をつがえるや否やいとも容易く弦を引き絞った。
「これ以上は無意味です! 剣を納めて下さい!」
 ドナは、つがえた矢を向けながら、殺気立った口調でそう警告する。けれど、当然だがゴットハルトはそれに従う筈もなく、そして俺も自分だけが剣を納める訳にもいかなかった。
「何のつもりですか! 馬鹿な真似は止めなさい!」
「動かないで下さい!」
 慌ててドナの凶行を止めようとするリチャードだったが、ドナはそれ以上の気迫でその場に踏み留まらせる。遅れて入って来たクレメントも同様に、あまりに唐突な出来事に圧倒されてしまっていた。
 これまで俺達が繰り広げていた、死闘の空気が一変する。ドナが決闘を止めようとしているのは理解出来たが、これまで全く素振りも見せていなかった大弓を構えているのと、普段の冷然とした姿からは想像も出来ない鬼気迫る様子が、あまりに異様な雰囲気を醸し出していた。下手に刺激すれば、誰かを射殺しかねない。そんな危惧を抱いた途端、俺の精神はすっかり平常の物に戻ってしまっていた。
「ようやく本性を現しおったか……この売女め!」
「下がって剣を置きなさい! 私は本気です!」
 ゴットハルト氏は、ここまで聞こえてくるほど激しく歯軋りしながら、足を引き摺るようにドナへ近付く。ドナはヒステリックに叫びながら番えた矢を向け警告するが、ゴットハルト氏は一向に意に介さない。
「ゴットハルト殿! ここは彼女の言う通りに!」
「黙れ若僧が! 庇い立てするならば、等しく斬って捨てるぞ! 貴様とて、息子を辱めた徒党の一人には違いないのだからな!」
 リチャードの呼び掛けにも従わず、ゴットハルト氏は、剣を杖代わりにずるりずるりと足を引き摺りながら進む。押せば倒れるような満身創痍の姿だというのに、下手に近付けばたちまち斬りかかられてしまいそうな、これまでにない濃い殺気を纏っている。俺は元より、そもそも丸腰であるリチャード達ではとても近寄れる筈もなかった。
「止まりなさい! 従わぬのなら、撃ちます!」
「やってみるがいい! 薄汚れた矢などで、止められると思うな!」
 そうがなった直後だった。ひゅっ、と風が強く吹き付けたような高い短音が響いたと思うと、今度はざくっという何とも言えない鈍く粘着いた音が聞こえた。何が起こったのか、俺はまずドナの方を見た。ドナは先程からほぼ同じ姿勢のままだったが、番えていたはずの矢は姿を消している。続いて、その射線上に居るゴットハルト氏の方を見る。ゴットハルト氏は左肩を押さえ、辛うじて膝は付いていない姿だった。そしてその左肩には、一本の矢が突き刺さっている。押さえている手の間からは、見る間に血が溢れ出始めて来た。
「な、何て事を……」
「次は眉間です! 分かったなら、下がりなさい! 私は本気です!」
 蒼白になっているクレメントを置き、ドナはすぐに次の矢を番える。急所ではないとは言え、あっさりとゴットハルト氏を射た事に俺は戦慄した。殺意の有無ではなく、この決闘のような双方の同意も無くそんな事が出来る人間ではないと思っていたのだが。これは重大な外交問題にもなりかねない、リチャードの首を殊更絞める行為だ。側近である筈のドナがそんな事をするなんて、普段の理知性は何処へ行ってしまったのだろうか。
「なる程……ようやく分かったぞ」
 射られたゴットハルト氏は、僅かに笑みを浮かべながら背筋を伸ばしドナを睨み付ける。そして驚く事に、左肩に刺さった矢をそのまま力任せに引き抜いてしまった。矢には返しが付いているため、そんな事をすれば余計に傷が広がり痛みが増す。想像しただけでぞっとする行為だ。
「息子には私が一から剣術を仕込んでいる。賊徒如きに後れをとる筈はないと思っていたのだが、なるほど、やはり貴様の仕業だったのだな」
「それ以前に、正式な形では意味が無かったのですから。騙し討ちと知らしめるにも、この方が都合が良いのです」
 それではまるで、セルギウス大尉は謀殺されたと、わざと広めたかったと言っているように聞こえる。
 だが、これで一つはっきりした。セルギウス大尉を殺害したのは、ジョエルではなくてドナだったのだ。例の決闘の当日、ドナは予め現場に潜んでいて、頃合いを見計らってセルギウス大尉を射殺したのだ。
「ドナ! 弓を納めなさい! こんな事をして、一体どうなると言うのです!?」
「公使、私は、お二方がこれ以上戦い続ける事を止めてもらいたいだけです」
「しかし、だからと言って、こんなやり方を! 会則に、決闘中は第三者の干渉を一切禁ずるとあるのを忘れた訳ではないでしょう!」
「それでも、この決闘は止めさせて頂きます。お二人を、これ以上私の勝手に巻き込む訳には参りませんから」