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 紺碧の都に到着後、俺とクレイグは真っ直ぐ大使館へと向かった。越して来た当日以来となる大使館内は、未だ大使館のイメージがラングリス時代の方が強い俺にとって慣れない物があったが、賓客を迎える整然とした区画と慌ただしく職員が奔走する区画のギャップは、ラングリス時代とそっくりそのままだと感じた。これからは此処を拠点として仕事をするのだから、早めに慣れておきたい所である。
 大使の執務室に入ると、そこは引越当時と比べ荷物は片付いており、何とものんびりとした空気に包まれていた。応接スペースで書類に向かっているハミルトンも表情に険しさが無く、さほど多忙そうには見えなかった。こちらもまた、一段落した所のようである。
「やあ、サイファー君。お疲れ様。今回はなかなか大変だったね」
 フェルナン大使は自分の席で、いつものように緊張感の抜けた飄々とした口調で俺達を出迎えた。
「只今戻りました。遅くなって大変申し訳ありません」
「いいよ、いいよ。経緯は、先に送って貰った報告書で把握しているからね。最悪の事態に備えて君を送ったのだけど、どうやら正解のようだった。本当に、君は期待通りの働きをしてくれるよ。総領事館が大使館に従うかどうかも、はっきりと分かったことだしね。ああ、別に炭坑のカナリアにした訳じゃあないからね?」
 そう嬉しそうに笑いながら、デスクの上の剥いたリンゴを一片手にとってしゃりしゃりと小気味良い音立てながら食べた。随分と機嫌が良いらしく、声のトーンが普段よりも高い。これは多分、ストルナ市の件以外に何かあったのだろう。
「随分と御機嫌のようですが」
「いや、さっきね。紺碧の都にあるレイモンド商会から、親書が届いてさ。今回の件の感謝と、私の在任中のフォローを約束してくれたんだよ。やはり、貸しは作っておくものだね」
 レイモンド商会と言えば、リチャードの実家の一族が経営する巨大企業の一部である。アクアリアでも当然商業を展開しているのだが、そこからのフォローを受けられるという事は、資金的な援助ばかりか有形無形の様々な恩恵に与れる事になる。これは就任直後の大使にとって非常にありがたい申し出だ。アクアリア政府と軍にも貸しを作ったのだから、在任中は安泰と言えるのだろう。
「まあ、事情が事情で仕方が無かったとは言え、また君は大分無茶をしたようだね。得られたものはそれに対する見返りと思えば妥当かも知れないけど、ルイちゃんの事も考えないと駄目だよ」
「はい、肝に銘じておきます」
「うん。それじゃあ君は今日はもう帰って、しばらく休暇を取りなさい。まだ紺碧の都にも慣れていないだろうからね。ルイちゃんは、多分うちに居ると思うよ。ルイーズが良く話し相手にしていたから」
 それで、あの手紙がルイーズ経由で渡ってきたのだろう。お陰で助かったのだろうが、ついでに要らぬ恥をかいた心境でもある。
 今夜は久し振りにルイの料理が食べられる。総領事館の料理も悪くは無かったが、やはり普段食べ慣れているものが一番良い。紺碧の都なら良い魚も手に入るだろうし、ついでに酒も買っておこう。そんな事を頭の中で並べ立てた時だった。
「そうそう、言い忘れていたけど。君は少し辛い話になるんだけれど、いいかな?」
「ええ、構いません。何でしょうか」
「総領事館のその後の事なんだけれど。実は今朝方、速報が入ってきてね。よほど急いでいたのか、君達を追い抜いたようで」
「何か緊急事態でもあったのですか?」
「ドナ書記官という人がね、亡くなったそうだよ」
 反射的に、脳裏に彼女の顔が思い浮かぶ。あまりに唐突な事で、そこから次の言葉がどうしても繋がらなかった。
「えっ? それは一体どうして?」
「彼女は一応事件の発端者だからね、謹慎という名目で軟禁し事情聴取をしていたそうなんだけれど。昨日、ジャイルズ理事官という人に刺殺されたそうだ。その彼は今、総領事館内に拘留されて取調中、それが終わったら検察による審議に入るんじゃないかな」
 ジャイルズの名前を聞き、俺はこの突然の事態に納得がいってしまった。ジャイルズの性格を考えると、ドナがリチャードを陥れようとした事に我慢がならなかったのだろう。しかしリチャードは頑なにドナを庇う、ならば力業で引き離すしかない、そう考えての事に違いない。ジャイルズはレイモンド家の養子であり、リチャードには並々ならぬ信頼を寄せている。それはむしろ、心酔と言ってもいいだろう。しつこくリチャードを嗅ぎ回った俺にも脅しをかけてきたのだから、こういった事に及んでしまうのも無理からぬ事だ。
「それでね、ここからが本題なんだけれど。どうやらこの件にレイモンド商会が絡んでくるそうだよ」
「レイモンド商会が? どういう事でしょう?」
「判事や弁護士なんかを抱き込んで、法曹に圧力をかけるって事だよ。このジャイルズ理事官は、まあ外交官ではいられなくはなるだろうけれど、量刑自体は軽いものになるだろうし、再就職先も世話して貰うだろうね。案外、総領事館かも知れないよ」
 つまりジャイルズは、ほとんどお咎め無しで済むという事なのか。
 全身からどっと力が抜けるような思いだった。ドナはレイモンド家からは疎まれており、リチャードとは相思相愛であっても決して結ばれる事は無かった。それでもリチャードは本気でドナを守ろうとしていたからこそ、俺もまた決闘などという危険極まりない事に挑んで守ろうとしたのに。それが、一切無駄になったという事だ。俺は一体何のためにあんな危険な事をしたのか―――。
 ジャイルズの処分がその程度で済むのは、ジャイルズが養子だからという事だけでなく、リチャードを誑かす存在を排除した功績に報いたからだろう。リチャードはレイモンド家の次期当主になるだろうが、それは即ち一族全てのしがらみを一手に引き受ける事である。どれだけ栄華を極めようと、リチャードには本質的な自由は許されないのだ。
 リチャードは、己を磨くために決闘同好会を立ち上げた。生まれながらに将来が約束され、何不自由無く生きていく事の出来るであろう出自だから、そんなものは所詮子供の反抗期の延長ぐらいにしか思っていなかった。だからだろう、ここまで来てようやく、リチャードが決闘同好会を立ち上げた真意が、本当の意味で理解出来そうな気がした。