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 フェルナン大使の邸宅は、丁度俺に割り当てられた宿舎の隣に位置する。そのため互いの行き来には便利だが、ルイーズと仲の良いルイはともかく、プライベートまで大使にかき回されたくない俺にとっては迷惑な話である。
 一度自宅に寄り、荷物を置くついでにルイが居るかどうか確かめたが、やはり不在だった。今日戻ってくる事は伝えていなかったから、大使が話していた通り隣のルイーズの元に居るのだろう。
 ほんの少し歩き、隣家である大使の自宅を訪ねる。門の前で警備兵に話を通すと、すぐにラングリス時代からの顔見知りである執事がやって来て、中へ通された。
 フェルナン大使の自宅は、俺に割り当てられた宿舎よりも遥かに広大だった。建物は元より、中庭も充分な運動が出来そうなほどもあり、しかも手入れもしっかりと行き届いている。俺とは違って賓客を迎えなければならない事もあるから仕方がないのだろうが、なんとも贅沢な設備だと思った。
「どうぞ、こちらでございます」
 執事の案内で通されたのは、広く明るい遊戯室だった。明るさの理由は、外に面する壁が丸々出窓になっているためである。これだけ大きな硝子を見たのは初めてで、ただただ驚きの溜め息を漏らすばかりだった。
「いらっしゃい、サイファーさん。今日お帰りでしたのね」
 その窓際で、ルイーズとルイが共に円卓を囲んでいた。卓の上には、ティーセットと数々のお茶菓子が並んでいる。丁度昼下がりのティータイムに興じていたという所だろうか。
「只今戻りました。すっかりお世話になっていたようで」
「いいのよ、そんな事。まだ私も、アクアリアには不慣れで寂しいですもの。あの人は仕事ばかりだし。ゆっくりしていらして」
 ルイーズは気品ある仕草で俺を卓へ招く。俺は一礼し、席へと着いた。
「帰りが遅くなってすまなかった。不在の間、何か変わったことは無かったか?」
「い、いえ。特にこれと言っては……」
 普段通り訊ねた筈だが、何故かルイはやけによそよそしく、視線を外し気味に答えた。連絡も無く家を空けた事に機嫌を損ねたのかとも思ったが、決して不機嫌という表情でもない。何かあったのだろうか、そう小首を傾げる。
「さあ、どうぞ。召し上がって」
「恐縮です。戴きます」
 ルイーズが熱い紅茶をカップへと注いでくれる。部屋の中は暖房がしっかりと効いてはいるが、カップからは白い湯気が立ち上っていった。湯気に乗って漂ってくる香りは良く、あまり詳しくない俺にも良い茶葉で良い淹れ方をしたものだと、何となく感じた。
「アクアリアって、こんなに寒い所なのに案外良いお茶が手に入るの。貿易が盛んだからかしらね」
「ストルナ市もそうでした。ただ、みんな砂糖や蜂蜜をやたら足して飲んでいたので、勿体ない飲み方をしていると思いましたが」
「寒い土地柄のせいかしらね。濃い味が好きになるのよ」
 総領事館の食事は、やや濃いめだった。気候が寒く厳しい分、食事も自然と重いものになるのだろう。もっとも、大使は専属の料理人達を連れて来ているのだから、さほど気にする必要は無いのだが。
 しばし雑談を交えて談笑した後、最後にルイが日頃から世話になっている事に改めて礼を述べ、邸宅を後にする。もっとゆっくりとしていけばいいと一度は引き留められたが、やはり雇い主の家族の家で寛ぐ事は出来ないし、何より本人が帰って来たら殊更疲れてしまう。それらを二重も三重も遠回しにした言葉で丁重にお断りし、俺達はすぐ隣の自宅へと戻った。
 久し振りの帰宅とはなったが、実質一晩しか寝泊まりをしていないため、あまり帰ってきたという自覚が湧かない。それよりも、側にルイがいる事の方が帰宅してきた事を実感させてくれる。
 寝室で服を着替え、荷物の中身を解く。部屋はすっかり整理が済んでいて、いつも掃除をしているのか非常に綺麗に保たれている。相変わらず良く働くものだと、つくづく感心し、感謝する。
「明日からしばらく、休暇になった。それでせっかくだから、紺碧の都を見て回ろうと思うんだが」
「は、はい。私も、まだ大使館の近くしか分かりませんから」
 俺の上着にブラシをかけつつ、どこか上の空の返答をするルイ。どうにも様子がおかしい、体の調子でも悪いのだろうか。
「どうかしたのか?」
 ぼんやりとしているルイに近づき、声をかけてみる。すると、
「あ……」
 小さな声を上げ、またしても俺から視線を逸らした。
 本当にルイの様子がおかしい。俺が家を空けている間に何か合ったのだろうか。
 そう思っていると、ふとルイは思い切った様子で顔を上げて恐る恐る遠慮がちに訊ねて来た。
「あ、あの、サイファーさん……あの手紙の事ですけれど」
「ああ、突然で驚いたろうが」
「本当に、今から……?」
 意図の不明な言葉に、しばし沈黙する。
「今から?」
「その……帰ったらすぐにって……。でも、まだ日が高いですし、その……ちょっと恥ずかしくて……」
 一体何の事を言っているのだろうか?
 だがその疑問はすぐに解けた。うつむき加減に視線を逸らしながらも、気恥ずかしそうに、しかし何処か期待に満ちた眼差しで、時折様子を窺ってくるその仕草。これはつまり、あの猥雑な手紙の内容を真に受けているのだ。おそらくルイーズは、手紙の意図に気付いた上で、ルイだけにはわざと文面のまま信じさせたのだろう。そういう悪戯だ。
「いや、な。ルイ、あの手紙なんだが」
「はい、ルイーズさんが言っていました。男の人は、そういう事があるとかどうとか……」
「そうではなくて、あれはだな。元々は」
 そこまで口にし、やはりそれ以上を続けるのは思い留まった。別にそこまで必死になって否定する理由もなく、期待の眼差しを向けるルイをわざわざ落胆させる理由も無いのだ。
 今更恥ずかしがるような関係では無いが。ルイの未だ初々しい振る舞いが、俺にも気恥ずかしい思いをさせる。
「それより先に、食事にしよう。久し振りにお前の料理が食べたい」
「はい、分かりました」
 そう元気良く答えると、ルイは嬉しそうに俺の左腕に抱き付いた。その柔らかく熱い体の感触で、ようやく日常へ戻って来たという確信を持てた。今まで緊張が続いていたのだろうか、不思議と体から力が抜けていくような気分だった。そしてこのままルイを抱きたいと、これだけ自然に思ったのは本当に初めての事かも知れない。
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