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 監察官の役目とは、憲兵が法に則って正しく職務を遂行しているのか、不正があればそれを取り締まる事である。例え閑職に飛ばされたとしても、職務の大前提は変わるものではない。そう俺は思っていたのだが、この状況は大分そこから逸脱している。
「つまり、君は自分が何者なのか分からず、それを何とか突き止めて欲しいと。そういう事だな?」
「はい、そうなります。お手数をおかけする事になりますが……」
「この国において不法入国者は、特に政治的な理由でも無ければ例外なく強制送還だ。君への措置も、ほぼそうなるだろうが」
「分かっています。それは構いません。ただ私は、肝心の送還先の国がどこか分からないのです」
 不法入国者は入国管理官の領分だ。身元不明者の特定は一般の憲兵等の担当で、監察官の仕事ではない。ましてや記憶喪失などは医者の領分だ。
 何故こんな案件が自分の元へ回って来たのか、そもそも何かの間違いではないのか。そんな淡い希望を持ちつつ、俺は彼女が携えてきた封筒の中を開けて見る。そこから出て来たのは、簡素な封筒に見合わぬ豪奢に金箔をあしらった上質紙の書類だった。
「……なるほどな」
 執行省令。
 下記被疑者の身元特定、及び本国への速やかな送還を命ず。
 監部の上層組織である、法務省からの正式な通達である。実際は大臣からあいつへの委任状なのだろうが、ともかく正式な通達である事には変わりはなく、受け取った以上は職務を遂行しなければならない。大方、上で持て余した厄介事を、あいつがわざわざ引き取った上で俺に押し付けたのだろう。そうすることで、泥を被りたくない連中には貸しを作れるし、俺が解決出来なければそれを理由に処分する事が出来る。あまりに露骨な嫌がらせである。自分の領分ではない、と不服申立てを行い突っぱねてやってもいいのだが。
「私、どうしたらいいか……とても御迷惑になっているのは重々承知の上ではあるのですが……」
 何とも心細さそうな声で訴える彼女、それを前にして、面倒事をよくも持って来たな、などとは流石に口には出来ない。此処に飛ばされて大分腐りはしたが、まだそれくらいの誇りは持っているつもりだ。
 まあ、ここで中身のない新聞を眺めているよりは身のある仕事だろう。そう心境を立て直し、命令書は上着の中へ収める。畑違いの仕事で成果を出す自信は無いが、取りあえずは受けて取り組んでみようという意気はある。失敗した所で仕事を辞めるいい転機にはなるし、うっかり成功した所であいつの鼻を明かせる。どちらに転んでも悪くはない。
「分かった、引き受けてみよう。ひとまず、時間も時間だ。先に食事にしよう。事情はそのすがらでも」
「は、はい。宜しくお願いします」
「俺はサイファーだ。君の名前は?」
「レイです。それだけは覚えていました」
「名前以外は何も?」
「はい。身分証明になるものも持っていなくて、誕生日とか年齢も何も分かりません」
 名前しか情報が無いとなると、戸籍帳簿を問い合わせた所で結果は冗長になるだろう。珍しい名前ならともかく、片手で数えるだけのスペルしかない名前はごまんといる。まして連合内全ての国となると、膨大な数になるだろう。それを全て確認する訳にもいかないから、その線からの調査は不可能だ。
 それから連れ立って庁舎を出て、正門を横断するように伸びる大通りへと入る。通りを道なりに進んで行くと、又幾つかの通りに分かれていく。その内の一つが多くの飲食店が軒を連ねており、昼食を外で済ませる時は大概此処へ足を運ぶ。昼時は凄まじい混雑で前に進むのもままならず、それ以前にこういった雑踏での食事に若い女性を連れて行くのはどうかとも思ったが、仕事ばかり打ち込んでいた俺は他に食事の出来るような店は知らなかった。
 雑踏に揉まれながら何軒かの店を見、ようやく落ち着いた話の出来そうな店へ入った。小路の突き当りという立地条件の悪さのせいか、昼時だというのに店内に客は三人ほど、いずれも一人での客である。俺達は店の一番奥のテーブルへ着き適当に注文する。この店はどこか外国の料理が専門らしく、メニューにあまり馴染みの無い名前ばかりあったせいだ。この店が流行っていないのは立地だけでなく、料理自体があまりこの聖都で馴染みがないせいだろう。
「では、もう少し事情を詳しく聞かせて貰おうか。君はどうやって俺の元まで来たんだ?」
「あ、はい。その、一週間ほど前の事なんですけど、私、気が付くと廃屋にいまして。町外れの山奥です。側には古い炭焼小屋があって、もう何年も前に捨てられた感じの建物です」
「それが君の最初の記憶か」
「はい。それで状況が良く分からなくて、その日は一日中廃屋の中に居ました。翌日になって、自分が何も思い出せない事とこれからどうしたらいいのかが分からなくなって、とにかく誰かを頼ろうと思い外へ出ました。その途中、この町へ向かう行商の人に会いまして、困ったことがあったなら警察へ相談すると良いと教えて頂き、わざわざ警察署まで送って頂きました。それから窓口へ行って事情を話したところ、別室の方へ通されて身分証の事とか色々と訊かれて。それで私を解放する訳にはいかないと言われ、そこで三日ほど過ごしました。四日目になってあの庁舎の方へ移動させられ、今度は違う人達から色々と訊かれました。そして今朝になって急に釈放と言われました。その時にあの封筒を渡され、編纂室へ向かうように言われたんです」
 通常はただの密入国者を何日も勾留したりはしないし、本庁へ移動させる事もしない。おそらく入管と警察とで身柄の押し付け合いをしたのだろう。それを監部が拾い、執行書の交付がされたのが今日だった、といった所だろうか。
「薄々勘付いていると思うが、君は非常に厄介な問題を抱えている。率直に言って、解決するのは非常に難しいだろう」
「はい、私もそう思います。何か身分証でもあれば、もう少し簡単になったのではと思うのですが……」
「無い物は仕方無いだろう。とにかく、まずは君についての情報を少しでも多く集める他無い。この後、件の廃屋へ行ってみよう。何か手掛かりが残っているかも知れない」
 名前以外の手掛かりは一切無し。確かにこれは、どの部署も担当するのは嫌がるであろう事案である。それを監部が受け持つというのもおかしな話だ。傍から見ると、何かきな臭い事件を追っているか、若しくは上役への点数稼ぎにしか見えないに違いない。
 取り留めない雑談などを続けて程なく、厨房から無愛想な男が料理をテーブルへ運んで来た。ライ麦のパンに、野菜と魚介類を煮込んだもの、それと砂糖漬けの果物。パンはこの国でも良く食べられるものだが、果物を砂糖漬けにしたものは滅多に見ない。この国で果物は、大概がそのまま食べるか煮るかのどちらかだ。野菜と魚介類の煮物は、見た目よりも味付けが甘かった。塩の量が少ないか、砂糖が多いのだろう。また、何か変わった香辛料が使われているらしく、後味に独特の風味が残る。食べられないという訳ではないが、あまり馴染んだ味ではない。やはりよほど物好きか慣れた者でなければ、この店には通わないだろう。
「少し甘い味付けだな。甘いものは平気か?」
「はい、大丈夫です。ちょっと変わった風味ですけど」
 見るとレイは、この独特の味付けにさほど抵抗感が無いらしく、次々と美味そうに頬張っていた。
「勾留中の食事はどうだった?」
「似たような感じです。パンとスープに何か料理が一皿。でも、少し塩辛かったので、良くお水を戴いていました」
 出された食事、この国の味付けを塩辛いと感じるという事は、彼女が元々食べていた食事はもっと甘めだったのだろう。
 この店の料理はどこの国のものか。メニューに再度視線を落とすと、先頭の行に、本場アスルラの味、と書かれているのが目に入った。アスルラ、同じ連合加盟国で、この国から西の方に位置する。彼女の出身は西国でアスルラ国の周辺である可能性が高いという事だが、西国地方は少々厄介である。元々内部紛争の多い大小の国が点在しており、今でも政情の不安定な国が少なくないのだ。