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 退庁の時刻を過ぎると、日中は慌ただしく職員が行き交う庁内の様子もがらりと変わり、嘘のように閑散とする。もっとも、全ての部署がそうなのではなく、中には昼夜を問わず職務に従事している所もある。ただ、デスクワークで夜も遅くなるのは、非常に限られた一部の部署だけという事だ。
 編纂室のある旧庁舎を出て、正門に続く新庁舎を横断した、丁度敷地内の反対側に位置する講堂、そこは主に一般市民との接点が多い部署が集められた建物である。来賓を招く事も多いため、外観も内装も庁舎に似付かわしくはないほどデザインを重視したものになっている。著名な建築家による作品らしく内外からの評価も高いそうだが、税金の無駄遣いの象徴だと揶揄する市井も少なくない。
 時刻も時刻だけに正面口は既に閉まっていたため、裏手にある夜間通路から中へと入る。構内は薄暗く、どこの部屋も職員が帰宅しているため明かりが点いていない。時折、書類を抱えた職員とすれ違いはするが、いずれも表情には余裕があり、仕事に酷く追われている様子は見受けられない。
 目指す場所は、三階の西側に位置する書斎群の一角。そこは、国政に直結する外交を任されている職員に与えられている書斎だ。代議士お抱えの外交官であり、要するに外交官の中でもエリートに位置する存在である。
 目的の部屋は、通路を袋小路まで行った所の一つ前の部屋だ。連合加盟国の中でも北西諸国に長けた人物で、今回の事件においてアドバイザーを頼むには打ってつけである。ただ、あまり気が進まない理由もある。それは、俺とは古い知り合いだという事だ。
 廊下を進んで行くと、目的の部屋のドアから明かりが漏れているのが見えた。まだ仕事で残っているらしい。北西諸国はあまり良い情勢ではないから、やらなければならない仕事も多いのだろう。
 ドアの前に立ち、ノックの前に中の様子に聞き耳を立てる。特に話し声は無く、何かの打ち合わせという訳では無いらしい。
 躊躇すればその分やりにくくなる。俺は間髪入れずドアをノックする。
『どうぞ』
 久し振りに聞く、毅然とした口調で入室を促される。様子に変わりはないのか、などと考えながら中へと入った。
「あら……懐かしい顔ね」
 部屋の奥のデスクに着く彼女は、一瞬驚きの表情を浮かべ、以前通りの薄い笑みを見せた。
「突然で悪いが、少し時間を貰いたいんだが」
「構わないわ。丁度仕事が片付いた所だから」
 やや厚めの眼鏡を外しゆっくりとデスクから立ち上がると、彼女は応接スペースへと促した。腰を下ろしたソファーは、編纂室のそれとは座り心地が雲泥の差で、それが自分と彼女との立場や評価の差だと思うと、少しばかり苦々しく思った。なまじ親しかった人物であるだけに、本来ならこういった要件でもなければ一番顔を合わせたくなかった。自分が必ずこういう僻みを抱くと予想出来たからだ。
「何時ぐらいぶりかしら。あなたが上司に楯突いたと聞いてから、とんと庁舎で姿を見なくなったもの。てっきり辞めたか消されたかと思ったわ」
「旧庁舎の片隅の閑職に追いやられてる。編纂室という伝統のある場所だ。なので、そろそろ辞めようかと思っている」
「そう。じゃあ、私に復帰の便宜を計ってもらおうという訳じゃなさそうね」
「ああ、純粋に仕事の事だ」
「私の専門は知っているでしょう? 編纂室の仕事に、どう力になれるのかしら」
「北ラングリス共和国は知っているよな」
「ええ。人口は一千万程の新興国。共和制とは言っているものの、主な産業は軍事と麻薬、裏では兵器密売に人身売買等々の疑い有り。ま、典型的な軍事独裁政権の構造ね」
「実は、その国の人間と思われる密入国者を預かっている」
「思われる?」
「記憶がないんだ。身分証も旅券も無い以上、今はまだそうとしか推測出来ない」
「もしかして、この間噂になった事件のことかしら。あなたの所に回っていたなんて。また随分な面倒を引き受けたようだけど、流石に畑違いではなくて?」
「元上司からの嫌がらせさ。ならば、受けて立つしかないだろう」
「そうやって子供のように、相手も見ないですぐに刃向かうからこういう目に遭うのよ。何も学んでいないようね」
「何とでも言え」
 確かに、気に入らないと思った相手に噛みつかずにはいられない悪癖が自分にはある事を、俺ははっきりと自覚している。無論、誰彼関係なかったのはあくまで子供の頃で、歳と共に常識の枠内へ収め出来る限り抑えては来た。しかしあの件では、不正を詳らかにするのだという大義名分を持ってしまったせいで、うっかり自制利かなくなってしまったのだ。冷静に考えれば、まるで得のない馬鹿げた行いであると言われても仕方はないだろう。今回の件にしてもそうだ。半ば買い言葉で受けてしまったものの、本当に辞職するのであればわざわざ面倒事を引き受ける理由はないのだ。結局の所、俺はあいつが関わるとどうにも冷静でならなくなるらしい。
「それで、私はどうしたらいいのかしら?」
「北ラングリスと連絡を取る方法を教えて欲しい。こちらで身柄を預っている人物の、身元の照会が出来ればそれでいい。護送は俺が自分でやる」
「そう。セディアランドとはあまり国交はないけれど、それくらいならさほど手間も掛からないはずよ。まあ、回答まで一週間といった所ね」
「ありがとう、恩に着る」
「これは貸しよ。もっとも、あなたにそれを返す甲斐性があるかどうかは疑問だけれど」
 痛いところを突かれた。そう思い、俺は言葉に詰まり眉間に皺を寄せる。それがよほどおかしな表情だったのだろう、彼女は俺を見ながらくすくすと肩を揺らして笑った。編纂室の人間に貸しを作った所で、それが何の役にも立たないのは自分でも自覚している。それで敢えて手伝ってくれるのだから、むしろ俺の方が返し切れない借りを作ったと考えるべきだろう。
「ところで、一つ訊ねるけど。どうしてその密入国者の国籍が北ラングリスだと思ったのかしら?」
「ただの推測だ」
「その割に確信を持っていそうだけれど。昔から、ただの憶測は口にしなかった人が。第一、人に物を頼むのに自分だけ隠し事をするのはアンフェアじゃなくて?」
「その通りなんだがな。もしかすると、知らない方が良いかも知れない。質の悪そうなのが噛んでいるかも知れない」
「気にしないわ。この仕事で命を狙われた事も一度や二度じゃないから。今も進行形なんだもの」
「そうか。なら、直接見て貰った方が早いだろう。しばし御足労願おうか」