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 船が港へ停泊すると間も無く、部屋の外から人の声が飛び交い始めた。この慌ただしさは恐らく身柄の引き渡しだろう、そんな状況を想定しつつ、俺はベッドの上で昏倒している振りをする。
 程無く、部屋のドアがノックも無く開かれた。ふらついた振りをしながら顔を上げて見ると、入って来たのは部屋の外で見張り役をしていた男だった。男はこちらの様子を見るなり、未だ催眠剤が効いていると判断したのだろう、思っていたより警戒の色は薄かった。
「おい、起きろ。着いたぞ」
「着いた?」
「いいから急げ」
 男はもたつく俺の腕を面倒臭そうに掴み、力任せにベッドから引き起こす。もう偽る必要は無いとばかりに、言動は粗雑なものに変わっている。やはり迎えにやってきたのは、ノルベルト大使の随行員達では無かったようである。
 強引に引き起こされた反動で、わざとベッドの下へ転げ落ちる。膝でわざと床を叩き派手な音を立ててみるものの、男はそんな俺に対して引き起こす手を貸そうともしなかった。乗船の時の丁重な扱いとは雲泥の差である。
「待ってくれ、何だか気分が悪い。少し休んでからにしたい」
「黙って立て。休むのは後にしろ」
 弱々しく立ち上がった俺を、男は襟首を掴み上げて無理やり歩かせ始めた。完全に捕虜か何かの扱いである。こう待遇が変わったところから察するに、連中の目的はほぼ達せられたのだろう。
 強引に引き連れられながら部屋を出る。向かいの部屋には寄らず廊下を進んだ。レイは既に移送したのか、若しくは下船するのは俺だけなのか。
「待ってくれ。向かいの部屋に連れが居るんだ」
「いいから黙って歩け。連れの女なら既に降りたぞ」
 それはつまりレイも下船したという事なのだろうか。
 一抹の不安を残しつつ、男の命令に従いながら船の中を進み、程無く港へ降りる。港は周囲の灯りが不自然に消され、不気味な程静まり返っていた。おそらく敵の手の者があらかじめ人払いをしていたのだろう。レイ一人をさらうため、これほど大掛かりな事をするとは予想もしていなかった。となると目的は、レイの身柄というよりも、あの金貨の方になるだろうか。
 波止場には数名の男達と、その側に座り込んでいるレイの姿があった。濃淡な灰色で塗られた、不自然な配色の馬車も数台止まっている。男達はいずれも身分卑しからぬ様相だった。素性までは窺い知れないが、少なくともごろつきの類では無い。裏社会に通じた権力者辺りだろう。
 レイは未だ催眠剤が抜け切れていないらしく、意識はあるようだが自分の足で立つことが困難な状態に見受けられる。護衛と思しき男達も数多く、まだ行動を起こす事は出来ない。俺はレイのように薬が抜け切っていない振りを続ける。
「おい、その男は誰だ? 女だけのはずだが」
「セディアランドからの随行員です。大使が随行を許可されたものですから」
 大使とはノルベルト大使の事だろう。あの場での事が漏らしたスパイがいたのかもしれない。
「ちっ……厄介な者を連れて来たな。どうする、始末するか?」
「いや、セディアランドの人間を殺すのはまずい。このまま送り返せ。薬も忘れるな。強めに効かせれば、ここでの記憶も曖昧になるだろう」
 そんな指示が下され、すぐさま別の男が俺に近付き内ポケットから茶色の小瓶と匙を取り出す。続いて俺の襟首を掴んでいた男が、後ろから無理やり俺の顔を上に向かせて口を開かせる。恐らく食事に混入された時よりも多く飲まされるのだろうが、今これを口にしてしまえば、セディアランドへ帰るまで昏倒し続けるだろう。当然レイの行方も追えなくなる。しかし、ここで暴れてみたとしても到底打開出来るような状況ではない。
 いや、セディアランドの人間を殺す事は避けたいと言っていたのだから、殺されない事を見越して博打に打って出るのも一つの選択か。
 手短に覚悟を決め、袖に隠した暗殺剣の重量を確かめる。手の甲を前へ向けたまま軽く腕を振り、緩く折り曲げた指の中へ暗殺剣を落とす。先に攻撃するのは、俺の動きを拘束出来る背後の男だ。その後に目の前の男を仕留める。だが優勢に回れるのはそこまでだろう。まともにやり合うよりかは、あの中の誰かを人質に取る方が利口か。
 静かに両手を後ろへ回し、暗殺剣の柄を掴む。後は一気に抜き放って斬りつけるだけ。
 そう気組みを決めた時だった。
 ピィィィィッ!
 突然、空気を切り裂くような鋭い音が夜空に鳴り響く。何か小さな笛を力一杯吹いたような音だ。
「何だ!?」
 誰かが動揺した声を発する。だがそれに答えるよりも先に、更に状況が激変する。
「今だ、行けーっ!」
「遅れるな!」
 これまで何処に隠れていたのだろう、突如ばらばらの服装をした男達が次々と現れ、こちらに向かって突っ込んで来る。手には剣や槍といった、明らかに交戦目的の武器を携えている。様子から察するに、完全に不意を突いた襲撃だ。
「何をしている、退くぞ! 馬車を出さんか!」
「待て、女を連れて行け! 残しておく訳にはいかない!」
 見る間に状況が混乱して来る。そっと視線を目の前の男へ向けると、薬を手にしたままどう対処して良いのか分からず、その場で硬直していた。
 俺も良く状況は分からないが、これは千載一遇の好機である。この混乱に乗じればレイの確保も可能かも知れない。
 俺はゆっくりと息を吸い込むと、後ろ手に構えていた暗殺剣を一気に抜き放った。