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 医者の見立てでは、レイはこのまま休ませておけば自然と薬は代謝されるという事で、目を覚ますまで寝室に寝かしつけておくことにした。
 夜も明けて天窓から朝日が燦々と降り注いで来ると、またロイドの部下らしい者が朝食を運んできた。殆ど食欲など無かったが、何が起こっても対応出来るよう体調は万全にしておかなければならず、俺は作業的にそれを食べられるだけ食べた。食べ物を消化するのに自分の意志は必要ない、そんなあたりまえの事に何となく有り難さを感じる。
 ラングリスらしい甘めの味付けにいささか胸焼けを覚え、水差しの水を何杯か飲んで洗い流す。その際、ふとキャビネットの中に並んでいた酒が目に留まり、思わず一本取り出してしまった。仕事から干された僅かな時間の間で、気分が腐ると酒を飲む癖がついてしまった。その自覚はあったが、どうしてもこの緊張感から少しでも解放されたかった。酒はラベルからして値打ち物のようだったが、俺は味の善し悪しなど殆ど分からず、頭が麻痺すればそれだけで充分だった。
 今はこんな事をやっているような悠長な状況ではないというのに。
 そうと分かってはいたが、正直なところ自分の想定外の出来事があまりに起き過ぎていて、その上専門外の技能まで要求されている事に、精神的に大分参っていた。こんな事は逃避以外の何物でもなく、何の解決にもならないのは重々承知である。それでも、薄っぺらい気休めがどうしても欲しかった。
 何杯か煽り、精神的な動揺が麻痺してくると、不思議と頭が冷静に回ってくるようになった。酒で雑念が気にならなくなり、かえって集中出来るようになったのかも知れない。
 今、最も優先すべき事は、セディアランドへのいち早い帰国だ。しかし、連絡手段は現状ロイドを待たなければならない状態で、この部屋を出ても北ラングリス政府にたちまち捕まってしまうだろう。
 そして気になるのは、ロイドが我々をどうするつもりでいるのかだ。良く考えれば、此処はセーフハウスと言っておきながら出入り口は一つしか無く、そこにも屈強な番が配備されている。俺達は船の時と同様に、捕まっているのと変わりないのだ。
 俺達を拘束する目的は何か。レイが黒蜥蜴の生き残りで、南ラングリス運輸相暗殺の実行犯だからと、ロイドは言っていた。それを真に受けるかどうかは難しい所であるし、やはり現政権に対抗する大義名分のためというのが正解だろう。だが、それだけが目的ならば、俺まで助け恩を売る必要は無い。ロイドは貿易商社を営んでいると言っていたから、おそらくはセディアランドとの交易ルートを作りたい、といったもう一つの目的があるのだろう。どの道重要性はあまり高くはないはずだ。
 ロイドとは初期段階でもっと交渉すべきだった。此処に気付けなかった事が今になって悔やまれる。例え催眠剤が効いていたとしても、思考が完全に後手後手に回っていたのが痛い。それは俺の調子が悪いのではなく、これまでがそう言った立ち回りを強いられる仕事ではなかったからだが、おまけに今は、腹立ち紛れに酒まで飲んでしまった。何もかもが、あまりに迂闊過ぎる。仕事に向き不向きがあるとしたら、間違い無く外交は俺には不向きだろう。
 ロッキングチェアーに深々と座りながら天窓をボーッと眺める。しかし、朝日の揺らめきが眺めて楽しいはずもなく、いつしか瞼が下がりうたた寝を始めた。考えてみれば、昨夜は馬車でうたた寝して以来ずっと眠っていない。これくらいで疲れが出るほど鈍ってはいないはずだが、やはり気の緩みが出たのだろう。
 どれぐらい微睡んでいただろうか。ふと寝室のドアが開く音が聞こえて来て目を覚ますと、そこからレイがきょろきょろと周囲を見回しながら疑り深く姿を現した。
「心配するな。此処は大丈夫だ。俺達の味方をしてくれる人がいてな、その人に用意して貰った隠れ家だ」
 そうですか、と安堵の溜め息を付く。目が覚めると見慣れない場所に居る、という状況は二回目だっただろうか。やはりあまり気分の良いものでは無いようである。
「昨夜の事はどれくらい覚えている?」
「薄っすらとですけど、馬車に乗るまでの大体は。あれから私達、どうなったのでしょうか?」
「ちょっとな、面倒な状況になった。どうも国家間の政争に巻き込まれてしまったようだ」
「え、と、その、こういう時はどうすれば良いのでしょうか? そうだ、ノルベルト大使に連絡を」
「此処は北ラングリスだから、まあ無理だろうな。それに、俺達が此処へ来る羽目になった原因が、そもそもノルベルト大使のようだ」
「それじゃあ、私のせいでサイファーさんが巻き込まれたのですか!?」
「俺が馬鹿正直に相手の要求を飲んだのが悪いのさ。なに、気にする事は無い。結局は大使の思い通りに事は運ばなかったし、これからセディアランドへの連絡手段を融通して貰う。政府から直接圧力を掛けて貰えば、何とかなるさ。何せ後ろめたいのは、大使の方なんだからな」
 良く状況を飲み込めてはいないようではあったが、レイは俺が心配ないというのを信じたらしく、不安げな表情がぱっと安堵に変わった。ここまで信用してくれる相手に楽観論を語るのは後ろめたかったが、無闇に不安がらせても意味は無い。それに、今こちらが切れるのはセディアランドのカードだけであるのも事実だ。状況は、自分達からアクションを取れない分、あまり良くはない。
「あの、サイファーさん。私、何となく初めてじゃないと思うんです」
「何の話だ?」
「前にもこんな事があったと思うんです」
「こんな事って、誰かに拉致される事がか?」
「そうかどうかははっきりしないのですが……ああいうピリピリした空気に覚えがあって。こう人が入り乱れて、私は誰かに連れられていて、凄く怖い思いをしながら逃げたんです」
 言葉足らずではあったが、大体言いたい事は伝わってくる。確かにあの時の港は異様な状況に感じただろう。複数の男が怒鳴り合って入り乱れる光景など、そう日常で起こる事は無く、他の何かと混同する事も無い。
「それに、あの頭のボーっとする感じも。もしかすると、前にも飲んだ事があるのかも知れません」
「飲んだって、あの催眠剤をか? いや、流石にそれは有り得ない。あれは医療用でも無い、純粋な工作用の薬物だ。まかり間違っても、一般に流れる事は無い」
「でも、本当に覚えがあるんです。その時も、こんな風に頭がボーっとして眠くなって、目が覚めてもなかなか体が動かせなくて」
「手術か何かの麻酔と混同しているんじゃないのか?」
「いえ、それはありません。だって、その後に目が覚めたのは、あの廃屋だったんですから」
「あの廃屋? それは、二人で見に行ったあの場所の事か?」
「はい、そうです」