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 緊急用の脱出路とは、壁板の中に掘られた横穴で、まるで戦地の塹壕のような代物だった。灯りも無く、手探りで一歩先を確認しながら進んでいく。穴の中は周囲の音が小さな振動程度にしか聞こえず、よほど深い所を通っている事が想像できた。確かに、これだけの規模の脱出路を簡単に掘り返せる浅さに作るはずもないのだが。
「レイ、付いて来れているか?」
「はい、大丈夫です」
「後ろはどうだ? 何か気配はあるか?」
「いえ、特に何も聞こえません。多分、まだ追って来られてはないと思います」
 ロイドはうまく足止め出来ているのだろう。その時間を無駄にせず、今の内に出来る限り先へ進まなければならない。
 暗闇の中に長く居ると、酷く時間の感覚が薄れて気持ちが不安定になった。人間は暗闇では長く正気を保てないそうだが、何となくその理由も分かる気がした。俺でさえこうなのだからレイの様子が心配だったが、かと言って休むことも明かりを作ることも出来ない。ただひたすら先に進む以外、取り得る手段が無いのだ。
 一体どれくらい進んだだろうか。やがて、前方にぼんやりと小さく光が射し込んでいるのが見えた。どうやら目的地に着いたらしい。俺はすぐさま光の方へと駆けていった。
 その光の先を辿ると、丁度真上に古い板張りになった部分があり、その隙間から射し込んでいるのが分かった。ロイドが言っていた、廃屋の中に直接繋がっているのだろう。
「サイファーさん、此処に縄梯子がありますよ。腐っていないから使えると思います」
「つまり、これで登れと言う事か」
 試しに縄を引いてみると、やや軋みはあるもののしっかりと固定されている感触があった。大人でも一人ずつ登る分には十分耐え得るだろう。
「俺が先に行って確認しよう」
「気をつけて下さいね」
「上で板を割るだろうから、破片に当たらないように離れていてくれ」
 縄梯子に足を掛け、あちこちの結び目を軋ませながらひたすら上を目指して登る。縄梯子は研修生時代に何度か経験した事がある。登るのにバランス感覚が必要で、初めの内はなかなか思うように登れなかった。その上、梯子自体を研修生が作るので、体重を預けるにはとても勇気が必要だった。今思えば、よくも無事故で研修が終わったものである。
 縄梯子を登り切る辺りまで来ると、その先は板が張られていて進むことが出来なかった。手で押して厚さや木種を確かめてみると、何とか破れなくもない強度であるのが分かった。俺はぎりぎりまで板に身を寄せると、板の中心に向かって何度か肘を叩き込む。やがて板はぎしぎしと音を立てながら歪んでいき、そして乾いた音と共に割れる。後は簡単で、そこから無理やり板を引き剥がし、強引に人が一人通れるぐらいのスペースを作った。
 その穴から上層へ這い出る。周囲を確認すると、そこは長く使われていないような民家の中だった。積もった埃も少なくなく、使われなくなって大分経つようである。
 取り敢えず、差し迫った人の気配は感じない。俺は床穴から下で待つレイへ声を掛けた。
「大丈夫だ。レイ、君も上がって来い」
「わ、分かりました」
 自信なさげに答えるレイは、慎重に縄梯子へ手足を掛けると、おっかなびっくりにそろそろと登り始める。流石にこんなものを登った経験など無いのだろう、時折足を止めては縄梯子の揺れが収まるのを待ったり、手足の位置を調整してバランスを取り直したりと、見ていて非常にもどかしい登り方だった。何とか登り切るまであきれるほど時間がかかったが、怖くて登れないと言い出さないだけでも十分である。流石に彼女を背負って登るのは、恐らく難しいだろう。
「此処は何処でしょうか?」
「さてな。この国の地理は、俺は全く分からないから何とも言えん。とにかく、早く此処を離れなくては。そろそろ脱出路も見つかっただろう」
「あの、それじゃあここの穴だけでも塞いでおきませんか? 家具とか残ってますし」
「名案だな。いい嫌がらせになる」
 誉められたら事がよほど嬉しかったのか、レイはばっと輝くような笑みを浮かべる。こういった差し迫った状況では、モチベーションの高さは非常に重要だ。
 部屋を見渡し使えそうな物を物色する。大した物は残っていないが、割とすぐ側のタンスは重量もあり重石には最適のように見える。これならば、まず縄梯子の足場で押し退ける事は出来ないだろう。
 レイと協力し、タンスを引き摺って位置を調整すると、慎重に重心をずらして一気に穴の上へ倒した。タンスはその自重と勢いで、派手な音を立てながら床板へ僅かにめり込んだ。大人一人二人の力でどうにかなる重量ではない。いい時間稼ぎになると、俺は内心ほくそ笑んだ。
 しかし、その直後だった。
「今のはこの家からだぞ!」
「おい、誰か居るのか!?」
 外から男二人の声がする。どちらも、明らかにこの建物に向かって呼び掛けていた。そっと戸板の隙間から外の様子を窺う。建物の前に並んで立っていたのは、明らかに正規の兵隊と分かる装備の男二人だった。それぞれが槍を携えており、とても平時の見回りという雰囲気ではない。正規兵の部隊を突入させていたのは、ロイドの倉庫だけでは無かったのか。それとも、予めこんな離れた場所にまで網を広げていたのか。
 玄関の鍵など、押せば倒れる程度の物でしかない。裏口を探すのも一つの手だが、既に中を訝しがっている二人が扉を破って突入して来るのが時間の問題である。
 やはり力ずくによる強行突破になるか。
 俺はレイの方へ静かにするよう合図し、その場から大きく下がらせた。