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 どれだけ歩いたのだろうか。そんな事をしきりに胸の中で繰り返すようになり、いい加減この真っ暗な洞穴を歩き続ける事に嫌気が差していた頃だった。
 ランタンの明かりしか差さないはずの前方に、ふと小さく赤みがかった明かりが差し込んでいる事に気がついた。
「あれは……」
 もしかすると外界の光だろうか。そんな事を思うと、自然と疲れ切っているはずの足の運びが速まっていった。
「サイファーさん、もしかしてあれは」
「ああ、ようやく着いたのかも知れない」
 前に進むに従って、前方の光はよりはっきりと色や帯が分かるようになっていった。すると、疲れて鈍っていた頭の働きも見る間に精細さを取り戻していく。足の疲れも吹き飛ぶような心境だった。
「良くは分からないが、多分朝日だろうな。大体一晩がかりといったところか」
「やっぱり、前に私が来た時は子供の足だったから時間がかかったみたいですね」
「そうだな。確かにこの距離は、子供が踏破するには少々長過ぎる。途中、もっと休憩を繰り返したのだろう」
 今回は途中の休憩は二度程だった。レイの体力と自分の怪我の具合を懸念していたが、案外影響は無かったようである。レイが意外に体力があるのと、俺の怪我の程度が軽かったおかげだ。
「南ラングリスの地理は流石に思い出せないか?」
「多分、難しいと思います。景色を見れば、何かピンとくるかも知れませんけれど」
「となると、大使館は手探りで探すしかないか」
 抜けた先がどんな町かは分からないので、近くに大使館がある保証もない。歩いて探そうにも、レイが南ラングリス政府に手配されている可能性が高い以上は、ただ出歩くだけでも危険が過ぎる。やはり馬車を捕まえ、金で交渉するしかないだろう。
 やがて洞穴の終端へ辿り着く。そっと外の様子を窺うと、そこは北ラングリス同様に寂れた倉庫街だった。左手を見れば、くぐもった色の海が波をうねらせている。暗さで方角はさっぱり分からなかったが、どうやら洞穴はほぼ真っ直ぐ南下していたようである。
「此処が南ラングリスか。どうだ? 何か覚えはあるか?」
「あまり良くは……。何となくこの潮風には覚えがあるような気はしますけれど」
「国境沿いでは、北も南も大差はないだろうからな。取り敢えず、下に降りてみよう。まずどこかで馬車を捕まえなければ」
「それなら港がいいと思います。あそこには、帰港待ちの馬車が並んで待っていたはずですから」
 北側とは違って非常になだらかな傾斜地を下り、港の近辺へと降りる。そして馬車の停留所を求め町中へ足を踏み入れて行った。
 港は早朝の帰港で非常に賑わっており、頻繁に荷馬車が行き交い、その何倍もの人間による喧騒がそこかしこから聞こえて来る。同じ国境沿いの港町だが、北ラングリスとは違って憲兵の姿はどこにも見受けられなかった。詰め所らしき建物はあるため居る事は居るのだろうが、北ほど切迫している雰囲気は無い。流石に俺達が南ラングリスへ渡ったという情報は来ていないのだろう。
「サイファーさん、ありました。あそこです」
 レイが袖を引っ張りながら、喧騒に負けじと声を張り上げる。指差す先を見ると、通りの先に歩道側を半円形にくり抜いた形状をした停留所があった。しかし、そこには既に十名を越えようかという人が連なっており、馬車の姿は一つも見られなかった。
「これは、大分かかりそうだな……」
「この時間は、定期船と漁船の帰港が重なるので、いつもこうなんです。もう少ししたら落ち着いてくるはずですよ」
「そうか……。ん、今のそれは思い出したのか?」
「恐らく。確か同じ事を、お母さんに聞いたような気がするんです」
「なるほど。やはり、君は南ラングリスに住んでいたのは間違いないようだな。という事は、住んでいたのはこの町だったのか?」
「分かりません。ただ、何となく見覚えがある気はしますけど」
 かつて住んでいた町に来たから、急に記憶が蘇ってきたのだろうか。今更状況の改善に繋がりはしないだろうが、レイの回復は喜ばしい事である。この調子ならば、記憶の完全な回復もさほどかからないかも知れない。
「先に朝食を取るとしようか。どこかの店に入ろう」
「はい。あ、それならあちらに店が」
 再びレイが先立って雑踏の中へ進んでいく。連れられた先は、丁度魚市場の出口付近一帯に群居する飲食店街だった。やはりここも人混みで溢れかえっていて、密集している分、人々の喧騒もより近くで聞こえてくる。
「ここです、そう、ここ!」
 レイは他の入れそうな店を幾つも素通りし、やがて一軒のこじんまりとした店に入った。
「ここがどうかしたのか?」
「何となく覚えているんです。ここ、確かお母さんと一緒に入って」
 店は辛うじて座れるほどの混雑さで、俺達は一番奥の狭いテーブルへ押しやられるように座らされた。ざっと客層を見回すと、港の肉体労働者や定期便の船員、単なる旅行者風と、実に様々な顔触れだった。一見すると何をしに来たのか説明し難い俺達の格好もあまり目立たないように思う。
 レイは壁に貼られたメニューを見る事もなく、何やら料理を注文する。おそらくそれも記憶の断片なのだろう、この国の料理など分からない俺はそのまま任せる事にする。表情はいつものような温和なものではなく、どこかそわそわと落ち着かない焦りが感じられるものだった。突然と浮かんできた記憶が正確なものなのかどうか、早く確認をして安心したいのだろう。
 やがてテーブルに運ばれて来たのは、近海のものらしい丸々一匹の蒸し魚と、魚貝類をごった煮にしたスープだった。この国で一般的に食べられている大衆料理だろう。雑多で素朴な印象を受ける料理だ。
「どうだ? 思った通りの料理なのか?」
「はい……。あの時のままです」
 そう言ってレイは恐る恐る食事に手をつけ始める。俺も昨夜から歩きづめで空腹だったため、それに続いた。
 料理の味付けは、セディアランドで食べたアスルラ料理よりも更に甘い味付けに感じる。それと、どちらの料理にも何か独特の強い香草を利かせている。これはアスルラ料理には無かったものだ。おかげで大分癖のある料理の印象だが、さほど苦手な味付けという訳でもない。
「やっぱり……。これ、私が良く食べていた味です」
 しばらくして、レイがゆっくり確かめるように話し出した。実際に味わって確証を得たのだろう。しかし、表情から焦りは消えたものの、更に思い出す余地があるのか、一層緊張を強めている。
「もしかすると、この町に定住していたのかも知れないのか」
「分かりません。ただ、この料理だけはしっかり覚えています。子供の頃に北ラングリスから来て、今と同じようにこの料理を食べたんです。お母さんと、三人で」
「三人?」