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 医務室にて、大使館付きの医務官サンディアは、ベッドへ横たわらせたレイにてきぱきと処置を施していく。検温や心拍の計測、眼球運動等々、それらの確認が終わると、何らかの薬を調合してそれを腕に注射する。それから再度、心拍等々の確認を行った。
「感染症の類では無いようですね。一時的な物だと思われるので、今は経過観察になります。疲労の度合いも大きいようですし。大分無理をされたのでは?」
「ええ、確かに。北ラングリスでは、二度も襲われましたから、文字通り命からがら逃げ出して来ました」
「襲われた?」
 傍らで聞いていたクレイグが、怪訝な表情で問い返す。
「サイファーさん、一体何があったのか詳しく話して頂けますか。私は立場上、何も把握せずに置いておく訳にはいきませんから。襲われたなどという事実があるなら、尚更です」
「勿論、全て御説明致します」
「あ、その前に」
 席を立とうとした俺をサンディアが止め、再び椅子の上へ腰を落ち着かせた。
「あなたも怪我をされているようですから。処置しましょう」
 そう俺の右腕を指差す。来るときは上着で隠していたが、そこには北ラングリスで兵士の槍を受けた跡が乾いた血と共にくっきりと出ている。そういえば、俺は怪我をしているのだった。気を張り詰めていたせいだろうか、すっかり傷のことを忘れてしまっていた。
「そうですね。ではここで、お話をお聞かせ願いましょうか。彼女は医務官ですし、機密漏洩の心配はありませんよ」
「分かりました」
 シャツを脱ぎ右腕を治療台の上に乗せる。サンディアは傷口を洗い、縫っていた糸を鋏で切って取り除く。それからもう一度傷口を洗うと、じょじょに重く鈍い痛みが蘇り始めた。それと、少しばかり痒みもあった。傷口が少し癒着を始めていたのだろうか。
「これは御自分で処置をなされたのですか?」
「いえ、彼女にやって貰いました。何でも、以前からこういう事をしていた記憶があるとか。医療機関に従事していたのかも知れません」
「それにしては、少々癖が強い縫合ですね。おそらく我流でしていたのだと思いますよ。針の入れ方といい角度といい、縫合術のセオリーには沿っていませんから」
「我流で傷の縫合を? 一体何故そんな事を?」
「さあ、事情は色々あるでしょうし。この国はセディアランドと違って未だ内戦の熱りが冷めていませんし、表立っていないだけで南北の対立は激しいですから。医者に見せられないような怪我人など、少なくはないと思いますよ」
 医者に見せられない怪我人。サンディアの言葉で真っ先に連想したのは、黒蜥蜴というこの国に拠点を置く暗殺組織の事だった。レイの持っていた暗殺剣も黒蜥蜴の物であるだけに、レイが黒蜥蜴の残党では無いかという疑いはちょくちょく持ち上がっている。もしもそうなら、確かに医者にかかれない怪我人との接点が多くて当然だろう。自然と傷を縫い慣れてしまってもおかしくはない。けれど、やはり俺はレイが黒蜥蜴とはどうしても思えない。幾ら記憶喪失とは言え、暗殺者という空気が一切彼女からは感じられないのだ。
 改めて腕の傷を縫合して貰いながら、俺はクレイグに状況の説明を始めた。
「事の発端は、あの委任状にあります。本来なら私の職務外の内容なのですが、そういった経緯で引き受ける事になりました」
「先程拝見させて頂きました。あちらの方を出身国へ送還させるとか。確かに監察官の職務とは関係ありませんね」
「ええ。本件には一つ問題がありまして、彼女は記憶喪失なのです。肝心の送還先が分からず、その特定から始めなければなりませんでした。そのためか、庁内の部署間で身柄の押しつけ合いがあったようで」
 これまでに起こった出来事は、出来る限り詳しく正確に話した。無論、廃屋で見つけた物やノルベルト大使との経緯、北ラングリスで庇護を受けたロイドの事も包み隠さなかった。大使館の庇護を受ける以上は、隠し事はかえって立場を不利にすると考えたからだ。
「なるほど……。このようなケースは何分初めての事でして、私は若輩者ですからいささか戸惑いますね。ともかく、まず怪しいと睨むべきはノルベルト大使でしょうね。一国の大使と言えども、セディアランドの公職員に働いて良い振る舞いではありませんから」
「それに、単なる思い付きではなく、我々の事を知っていた上で画策したような計画性も感じられます。何とか公式に尋問など出来ないのでしょうか? 国際法に抵触している疑いがあるとかで」
「一般職相手ならともかく、役職が役職ですからね。かなり難しいと思います。こちらも大使を立てて公式な会談という形を取れば、無碍にされる事はないでしょうが。ただ、明確な違法性が証明出来ないと、大使も応じては頂けないと思います。国の代表同士で対話をする以上は、はっきりとした物が無くてはなりませんから」
「証言だけでは難しいと?」
「残念ながら。せめて、ノルベルト大使と北ラングリス政府との関わりが証明出来れば良いのですが。今持ち出してもきっと、北ラングリス側の独断という形で全て押し付けられますよ」
 セディアランドで乗船した時も、迎えの人間は大使の代理を名乗っていたが、本人が見つからなければただの騙りとして扱われるだけだろう。今回の事件の事情を知るロイドも、恐らく北ラングリス政府に拘束されたままで身動きは取れないはず。となると、ノルベルト大使が知らぬ存ぜぬを通しても、それは通ってしまうのだ。俺が騒いだ所で世間の印象は悪くなるだけである。それに、レイの聴取に協力すると約束した件もある。今更履行を拒否すれば、それこそ国家間の問題に発展しかねない。
 これで手詰まりなのだろうか。
 体の疲れや怪我のせいで、気持ちが弱っているのかも知れない。俺は俄かにそんな無力感に苛まれた。そしてそれが、かつて上司を告発しようとして失敗した当時の自分とそっくりで、無性に腹立たしかった。
「傷はこれで大丈夫でしょう。念のため化膿止めと炎症止めを処方しますから飲んで下さい」
「分かりました。ありがとうございます」
 傷口の処置が終わり、サンディアに礼を述べるものの、口調がどこか木訥とした抑揚のないものになっていた。それが、如何にも自分は落胆していると触れ回っているようで、慌てて咳払いで誤魔化し、再度礼を述べ直す。
「取りあえず、今後については大使がお戻りになられてからです。大使の判断はまた違うものかも知れませんからね。それに、彼女の方からもお話を聞かせて貰わないといけません。それまでに、まずは休息を取って下さい」
「そう言って頂けると助かります」
「私の仕事はそういうものですから。それと、シャツの着替えを用意させましょう。流石に、いつまでも血の付いた服では何ですからね」