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 翌朝、食堂へ入ると、そこではクレイグが難しい表情をして新聞を広げていた。
「おはようございます。何か気になる記事でも?」
「ああ、おはようございます。いえ、例の暗殺事件の件です。何か続報が無いかと思いまして」
「なるほど。何か掲載されていましたか?」
「これといって何も。まあ、正直なところ去年の事件ですからね、ほとんど忘れ去られていると思いますよ」
「そんな事件もずっと追っているのですか?」
「今日はたまたまですよ。もしも南ラングリス政府が彼女の存在を嗅ぎ付けていたら、何かしら新聞記事になるんじゃないかと思いまして」
「そうそう簡単に政府が情報を漏らすでしょうか?」
「この国には検閲はありませんからね。小遣い稼ぎで情報をリークする人間などザラですよ。昨日の手配書の確認にしても、予めこちらに情報を流すよう賄賂を渡している人間ですし」
 セディアランドは情報の機密体制は厳密に作られている。情報漏洩など滅多に起こる事案ではなく、個々人の機密意識も高い。南ラングリスはさほど厳格ではないのだろう。
 他愛のない雑談をしながら朝食を済ませた後、クレイグは仕事へ向かった。あまり重要視していない国の大使館でも、仕事はやはり忙しいらしい。
 一人食堂に残った俺は、しばしのんびりとコーヒーを飲んでいた。この後、レイの所を見舞うかどうか考える。サンディアの確認は必要だが、記憶が戻ったのであれば聞いておきたい事がある。ノルベルト大使の動きが無い内に、出来るだけこちらも対応策を練っておきたい、そのためにはまず情報が必要なのだ。
 程なくカップを空け、そろそろ医務室へ向かおうかと思ったその時だった。不意にレイが食堂内へ姿を現した。その表情は精彩さを欠いてはいたものの、昨日に比べ顔色は良く、精神的にも落ち着いた雰囲気だった。
「起きても大丈夫なのか?」
「はい、なんとか……。ご迷惑をお掛けしました」
「無理はするなよ。サンディアさんは、まだ安静にする必要があると言っていた」
「はい、気をつけます」
 レイは朝食に野菜スープだけを口にした。いつもなら年相応に食欲旺盛で、楽しそうに良く食べていたのだが。まだ体力的にも精神的にもそこまで回復していないのだろう。まだ、あまりあれこれと詰問しない方が良さそうに思う。
 ぼそぼそと啄むようにスープをすくいながら口に運び、すっかり冷めてしまってもまるで味などどうでも良いかのように作業的に続けるレイ。一体どのような心中かは分からないが、これが記憶を取り戻したせいなのだとしたら、はつらつとした記憶を失っていた当時の方が幸せだったのではないか、そんな事を思った。
 やがて皿を空けると、レイはしばらくスプーンを持ったまま胡椒の浮いた皿の底を見詰めていた。視線はどこか上の空で、如何にも思い詰めている風体だった。
 どう声をかけていいのやら分からず、かと言ってそのまま立ち去る事も出来ず、俺はもう一杯コーヒーを淹れると、無言のままで傍らに付き添った。
 再びカップが空になろうとする頃だった。レイはおもむろにこちらへ向き直ると、ずっと閉ざしていた口を開いた。
「あの、サイファーさん」
「何だ?」
「お話したい事があります。私の素性についてです」
 そう強い決心を口にするレイだったが、明らかに表情には迷いがあった。隠していた何かを無理に口にしてしまって楽になろう、そんな魂胆が見え透いている表情である。
「無理はしなくていいんだぞ。まだ精神的にも辛いはずだ」
「いえ、今話さないといけないと思うんです。私、記憶がもうはっきりと元に戻ったのですから」
 何か覚悟さえ窺わせるレイの様子に、俺は辞退させる言葉が思い浮かばなかった。無理をしているのは明らかだが、その決意を無碍にするのもいささかはばかられる。
 ここはしたいようにさせるのが良いのかも知れない。俺は自分もレイの方へ向き直った。
「記憶は戻りましたが、正直なところ何から話して良いのか良くは分かりません。ですから、私がまだ北ラングリスに居た頃の事からお話ししようと思います」
 レイは真っ向から俺に視線を合わせ語り始めた。俺はその視線はそらせないと感じた。
「私が産まれたのは、北ラングリスの南方、ザイツという街です。ロイドさんに助けて頂いたあの港街です。私はその街で、父と母、そして妹の四人で暮らしていました」
「四人? じゃあ、その妹というのが」
「私がずっと思い出せなかった、大切な人の事です。そして私の名前は、ルイ。レイは妹の名前です。私と妹は仲が良くて、いつも一緒に遊んでいました。だから、私と妹の名前を間違っていたんだと思います」
 レイの本当の名前はルイで、レイは彼女の妹の名前。催眠剤による記憶の混乱なら十分有り得る事である。自分の事と間違える程、親しかった者なのであれば。
「父は北ラングリス政府で仕事をしていました。今思い返せば、父は恐らく政府の高官だったんだと思います。仕事で長く家を空ける事が多く、よくスーツ姿の見知らぬ大人が家を訪ねて来ましたから。それで私が南ラングリスに渡ったのは、十歳の誕生日の翌日の事でした。理由は分かりませんが、母とレイと三人で、本当に突然の事でした。父はおそらく北ラングリスに残ったのだと思います。南ラングリスへの行き方はサイファーさんも御存知の通りです。二日ほど掛かってようやく辿り着いたのを憶えています」
「あの洞穴か。その時の記憶があったから、あの場所を知っていたんだな」
 何故彼女があんな違法性の高い場所を知っていたのか、これで説明が付けられる。あの場所も、おそらく父親が政府高官だったから知り得たのだろう。何か非常時のための備えだったに違いない。
「南ラングリスに渡ってからの生活は苦しいものでした。父が居なくなったので母はずっと働きに出て、レイの面倒は私が見ていました。でもそれは今までと同じだったから、私はあまり辛いとは思っていませんでした。父親に会えないのは寂しかったてすが、私達は三人になってもそれなりに睦まじかったと思います。ですが、ある日突然とその状況は一変しました。サイファーさんは、クロナ病というのを御存知でしょうか?」
「ああ、伝染病の事だろう。セディアランドでも昔に流行って俺も一度罹った。一週間近く薬を飲んでは寝てを繰り返したよ」
 空気感染するという、感染力の高い病気だ。発症すると瞬く間に高熱に襲われ、意識が朦朧として立ち上がれなくなる。その症状が長く続くと栄養も取れなくなり、やがて衰弱して死んでしまうのだ。俺自身も、最初はこれで自分は死ぬのかと絶望したほどだった。
「私達一家もその病気にかかったんです。最初に発症したのはレイでした。その時は何とか薬を買うことが出来てことなきを得ました。しかし、続いて母が掛かってしまって。私も既に働き始めていたけれど、それだけでは到底薬は買えませんでした。薬を買うには、もっと沢山のお金が必要だったんです」
 クロナ病は今でもセディアランドでは特定感染症に指定されていて、当時から緊急の行政対策が必要とされるほど致死率の高い病気とされていた。治療薬は生産量が少なく一時は値段が高騰したのだが、政府が臨時措置として医薬品メーカーに介入し生産量を増やす対策を取ったため、最終的にはあまり大事には至らなかった。どうやら南ラングリスでは、そういった政策は取られなかったようである。
「母の病状は回復する事はなく、そのまま程なく息を引き取りました。大好きな母が居なくなって私達姉妹はとても悲しんで毎日のように泣いていました。ですが、悪いことは続くものなのでしょうか、今度は私までもクロナ病にかかってしまいました」
「君もあれを経験したのか」
「はい。本当に苦しい病気でした。その時の家には薬を買うだけのお金はありません。だから私は仕方がないと半ば諦めていました。それがある日突然、レイが何処からか薬を持ってきたのです。まさか盗んで来たのかと問いただしましたが、ちゃんとお金を出して買ったと言うのです。そんなはずはないのに。だけど私は病気が苦しくて、それ以上は訊かずにその薬を飲んでしまいました。その後も、レイは繰り返し薬を持ってきては私に飲ませてくれました。自分で働いたお金で買ったからと言って。その薬の甲斐もあって病気は程なく良くなりましたが、レイはやはりお金の事は話してくれませんでした」
「その薬は、本当に買ってきたものだったのか? 子供の小遣いでどうにかなる値段ではなかったのだろう?」
「私も、ちょっと働いたくらいで買えるはずがないと思っていました。ですが、レイの言った事は本当でした。あの子、知らない内に道を踏み外していたんです。私のせいで」
「道を踏み外す?」
「あの子は、レイは、暗殺組織の仕事をしていたんです。サイファーさんも御存知の、あの黒蜥蜴の仕事です」