戻る

 ノルベルト大使がレイを殺した?
 それは全く考えもしなかった事だが、いや果たしてそのまま真に受けて良い言葉なのか。
「私が人殺しなどしそうに見えないかね?」
「性分はともかく、そんなリスクを背負う立場ではなかったはずですから」
「君は、思っていたより初心い考え方をするのだね。いやいや、まだ若い証拠だ」
 そう含み笑うノルベルト大使、そしてその傍らでフェルナン大使も同じような表情をしていた。この二人、まさかグルになっているのではないか。そんな不安と不信感が芽生え始める。
「さて、話を続けよう。彼女が属していた暗殺組織、黒蜥蜴。その宿敵とも言うべき組織は知っているかね?」
「白薔薇……」
「そう。私はそこの構成員の一人だ。多少の殺しぐらいで、おたおたする若造ではないのだよ」
 ルイは、如何にして妹が刺され致命傷を負ったのか、その事を拙くも話してくれた。ノルベルト大使が本当に白薔薇なら、辻褄は合わなくもない。白薔薇ならば、大使の身分を棒に振ってでもやらなければならない状況もあるだろう。
「そもそも、潜入は黒蜥蜴の専売特許という訳ではない。我々も仕事の内容に応じて、顔を変えたり身分を偽ったりする。そのためには、この大使という身分は実に都合が良い。余計な詮索もなく、楽に出入国出来るからね」
「二人を追ったのは、白薔薇の敵だから、ですね」
「その通り。二人は白薔薇の敵、ましてや国の利益を他国に売り渡すような輩は、速やかに仕留めなくてはいけなかった。しかし、事情が変わってね」
「事情?」
「白薔薇は黒蜥蜴との抗争に勝ちはしたが、既に組織の体裁も取れない有り様になってしまった。今年に入ってから、それは特に顕著でね。恒例の集会もずっと途絶えたままだ。だから私は、次の隠れ蓑、資金源が必要になったのだよ」
 つまりノルベルト大使は、両天秤に掛けていたものの内、暗殺事件の解決を蹴って金を選択したという事である。本来なら、ルイの身柄がその手付けになるはずだったのだろう。
「おかしいですね、母国の利益を売り渡すような真似を憎んでいるのでは?」
「それもまた、状況次第だよ」
 もう自らには、組織への忠誠心や南ラングリスへの愛国心もない、そう開き直った様である。元々、打算的で割り切る事が簡単に出来る性格なのだろう。
「いい加減、もう良いのではないかね? ここまで話したのだから、そろそろこちらの要求について応えて貰いたいものだ」
 状況の説明をしたのだから、今度はこちらに理解を求めているのだろう。理解は要求するものではないが、交渉の場では当たり前に行われる事だ。しかし、釈明だけで何一つ腹を痛めていない彼に、理解を渡すつもりはない。
「あなたの一つ目の条件、ルイの身柄を要求する意味は何です? 保身だけが目的なら、亡命だけを条件に挙げたらいいでしょう」
「念のため、ね。あの時に妹は、まるで差し違えるように、私の変装を暴いてくれてね。おかげで彼女には、私の姿を見られてしまった。それだけで直ちにどうかなる訳ではないが、何事も完璧にこなしたい主義でね。取引に使う意味も無くなった以上、生かしておく理由も無い。たとえ亡命したとしても、まだまだ世間には白薔薇の人間だと知られて欲しくないのだよ」
「我々なら知られても構わないと? それとも、この後に口封じの段取りでも?」
「大使閣下や君なら、軽々に他言はしないだろうと信じているからだよ」
 そういう情に訴える言い方をすれば、簡単に転んでくれる。そんな人間に思われているのだろうか。
「ところで、あなたはルイとレイの父親をご存知のようですね」
「ああ、知ってるよ。北ラングリス政府と黒蜥蜴の交渉役をしていた高官だ。とっくに、口封じのため始末されてるよ」
 もしかすると、北ラングリスと黒蜥蜴の関係は、運輸相暗殺事件よりも遥か前から続いていたのかも知れない。そこに何らかの危機感を持っていたとしたら、家族を南ラングリスへ移した事も納得のいく話だ。決して抜け出せない深みに、否応なしにはまらざるを得ない状況だったのだろう。
「自分の正体を詳らかにしたくない、それが要求の理由ですか?」
「顔によらず質問の多い男だね。まあ、いい。白薔薇はあくまで愛国心から成る組織だが、その存在は公にする訳にはいかんのだよ。これが構成員として最後の務めだ。そのためには、多少の犠牲もやむなしだよ」
 その愛国心の矛先を、平然と自国民にむけるなんて。
 ノルベルトは所詮、打算でしか物事を考えていない人間だ。世の中で最も信頼してはいけない人間である。彼らのような人種は、どれほど重く交わした約束も、必要とあれば簡単に破ってくるのだ。
 俺は自らの結論に決定を下した。それが一時的な感情の高ぶりによるものではないことも、何度も確認した。その上で、これが最も正しいと確信もする。ここからは後には退けないから、強い覚悟が必要である。それはあの時と全く一緒で、また同じ結果にならないか、そんな不安も頭を過ぎった。あの行動は散々に馬鹿にされたが、やはり俺は同じ轍でも避けて通る事は出来ない。
「そろそろ結論を述べる事にします。残りの条件ですが、それは全て却下します。一つとして飲むことはありません」
 言い切った。一言一句間違えなかった事に、安堵感すら覚える。
 すると、傍らでフェルナン大使が満足げに拍手する。やはり他人事のつもりなのだろう、まるで緊張感がない。俺は相手にせず、あえて無視をした。
「ほう。君は、自分が何を言っているか自覚しているのかね? 今の君は形式上、国家元首の代弁者という立場なのだが」
「理解した上での発言です。私の国は、罪のない命を軽んじる者に寛容にはなりません」
「本当にそういう国だと思っているのかね?」
「ええ、疑いなく」
「なるほど、確かに上司に逆らって干されただけの事はある。正義に悖る事はあくまで受け入れないという訳か。今時、実に頑なな若者だ。まあ、そうなるだろうとは分かっていたよ」
 まるで、こうなる事は予め予感していたかのような振る舞いを見せるノルベルト大使。すると、彼はおもむろに右手を肩ほどまで掲げた。
「うっ!?」
 突然、俺は両側から恐ろしく強い力で肩を押さえられると、そのままテーブルの上に上半身を組み伏せられた。辛うじて首だけを回して見ると、いつの間にか俺は別の黒スーツの男達に両脇を挟まれていた。その気配の薄さ、表情の無さから直感的に暗殺者だと思った。
「不本意だが、気が変わるまで多少痛い目を見てもらおう。なに、案ずることはない。どうすれば人は死なないか、我々は熟知しているのだから」