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「はあ?」
 突拍子もないその言葉に、思わず感情のままに声を漏らしてしまった。
「サイファー君、流石にそれは大使閣下相手に不敬過ぎないかね?」
「いや、失礼しました……。いえ、どうしてそういう事になるのですか?」
「だからね、セディアランドの国籍をルイちゃんにあげればいいんだよ。まあ僕の権限で永住権をあげる事も出来るんだけどさ、そういうのって良くないんだよね。本来国籍っていうのは、様々な条項を解決して、ようやく手に入れるものだからね。正規の手順で帰化した人達にしてみれば、特例措置なんて面白くないでしょ。特例ってものは、それこそ世間を揺るがすような重大事件でも無い限り、おいそれと作っちゃいけないんだよ。何事も示しだからね」
「セディアランド大使の誘拐事件は、世間を揺るがす程ではないのですか?」
「まあ、僕もこれで三度目だからね。新鮮味はもう無いよ」
 けらけらと笑いグラスを傾けるフェルナン大使。自身の誘拐をそこまで軽く見ているのは、本当に大物なのかただの白痴なのか、非常に判斷に難しいものがある。どちらにせよ、彼は俺などとは比べ物にならない程の修羅場をくぐって来たようである。
「医務室で随分と騒がしいわね」
 と、かなり強い語気を見せながら、サンディアが医務室へやって来た。
「やあ、サンディアちゃん。さっき言ってたこと、これから彼に了承させる所なんだよ」
「そう。それより、医務室にお酒を持ち込むのは止めて下さいと、再三に渡って申し上げたはずですが。全く、料理まで持ち込んで。ここは宴会場ではありませんよ」
「キミ、私は大使閣下だよ?」
「私は医務官で、ここは医務室よ。医務室では医務官の指示に従うこと。誰のお陰で、その行儀の悪い手を切り落とさずに済んだと思ってるの?」
「相変わらず手厳しいねえ」
 厳しい口調のサンディアに対し、フェルナン大使は愉快そうに笑い飛ばした。そんなやり取りの最中も、俺は未だにどんな表情をしていいのか分からず、固まったままだった。
「それでだ、話を戻そう。セディアランドの法律では、両者が初婚の場合に限って無条件に帰化を認めるよう定められているんだ。だから、君達が結婚してしまえば、何にも問題は無くなる訳だよ」
「いや、待って下さい。何にもではありませんよ。ちょっと話が急過ぎます。そもそも私と彼女とでは、歳が離れ過ぎています。彼女はまだ子供だ」
「あれ、確かルイちゃんは十八歳だったよね? サイファー君が二十六? 七? ま、法的には問題無いよね。第一、私の奥さんは二十歳下だよ。十歳差くらい、全然大した事無いよ」
「この人、三回目なのよ。理由は分かるでしょ? この性格だもの。普通の女は耐えられないわ。その点、貴方なら長続きするわよ。女は、何だかんだで固い男の方が安心出来るもの」
 サンディアもこの件に関してはフェルナン大使側なのだろうか。外野を決め込んでいる風体の割に、あまり恣意的ではない。
「結婚するにしても、彼女の気持ちを無視して事を運ぶ訳にはいきません」
「ほう、そうだね。じゃあ、ルイちゃん。君はサイファー君の事をどう思っているのかな?」
 すると、いつの間にかルイは顔を上げてこちらを見ていた。
「その……私は、サイファーさんさえ良ければ……」
 顔を耳まで真っ赤に染め、そこまで言った所で再び恥ずかしげにうつむく。けれど、両腕はしっかりと俺を掴んでいた。思わぬ反応に、俺は一層困惑を深めてしまう。
「本人も乗り気じゃない。なら問題は無いわね。お似合いよ、貴方達」
 そうサンディアも笑いながら合いの手を入れる。この人もフェルナン大使と同類なのか、そう思った。
「……私は、この仕事を終えたら、監察官を辞めるつもりでいます。どの道無職では、家庭を養う事は出来ません」
「ああ、知ってるよその噂なら。だからさっきね、クレイグ君に頼んで君の辞表を作って貰って、もう本国へ送っちゃった」
「えっ? ちょっと待って下さい。初耳ですよ、それは」
「そりゃ言ってないもの。君はなかなか目を覚まさないし」
 これだけの事をしておきながら、平然と笑うフェルナン大使。幾ら辞めるつもりだったとはいえ、勝手に人の辞表を作って送るなど、到底まともな大人のする事ではない。酔っ払った勢いでの行為ではないのか、そう疑る。
「それで、私を職無しにしてどうしろと?」
「まあ、聞き給え。実はね、以前に君が上司を告発しようとした話、あれは結構有名なんだよ。当然、こっちにも伝わって来ていてさ。みんなは大抵小馬鹿にしてたけど、私にとっては興味深くてね。近々、実際に会ってみようと思ってた所なんだよ」
「何のためにですか?」
「君を私設秘書として雇うために。この国も、そろそろ任期が切れるからね。次はもっと北の方の大国相手になるだろうから、有能な人間がもっと必要なんだよ。もちろん、給料も今より良いはずだから心配しなくていい。ちょっと海外勤務が多いだろうけど、そこはタダで旅行出来ると考えて」
 つまり俺は今、彼の都合だけで職を失ってしまったのか。俺を閑職へ飛ばした人事も、そこまで悪質ではなかった。何より、本人に無断でという所がより悪質さを感じる。
「私は外交官になるために官吏になった訳じゃありません」
「君の志はそうだったかも知れないがね、天の采配は違っていたのだよ」
「……勝手な言い草だ」
「だから大使まで出世したのだよ。凄いだろう? これもまた、天の采配さ。だからね、君達が一緒になって、君が僕の下で働くのも、あらかじめ決まっていた事なのさ」
 無茶苦茶な屁理屈だが、現に彼が大使である事は事実ではある。
 そんな理屈を捏ねてまで、俺を自分の部下にしたいというのか。けれど、それはそれでまた別の戸惑いがあった。他人からそういった評価を受けた事は、監部に就いてから初めての事だったからだ。
 その時、俺の中に不思議と大きな波が立った。気持ちが揺れている、そんな感覚だ。既に退路が無くなった以上、このまま任せても良いのではないか。そういう考えすら浮かぶ。
「それで、どうするの? こんな可愛い娘を、野に放っておくつもり? あなたの好みではないの?」
「いや、そういう話をしているのではなく……」
 続いてサンディアに迫られ、思わず返答に窮して逃げるように顔を背ける。
 何を困窮しているのか。我ながら情けない反応をしている。毅然と出来ない自分の顔を見られるのが嫌で、額を押さえながら顔の近くに覆いを作った。
「早く返答したまえ。女性をあまり待たせるものではないよ」
 フェルナン大使の催促が追い討ちのように飛んでくる。しかし、俺の耳にはほとんど聞こえていなかった。
 何という選択肢を迫られる事になったのか。いや、退路は無いのだから選択肢ですらないか。
 俺は、とっくに外堀を埋められている。まさに、編纂室へ飛ばされた時と同じ様相である。けれど、苦笑いこそこぼしはするものの、決して不愉快という訳でも無かった。
 やがて意を決した俺は顔を上げると、フェルナン大使に向かって正面から睨み付けた。
「……職務に就く前に、一つ言っておきます」
「どうぞ」
「雇い主に敬意は払いますが、あなたは個人的に嫌いなタイプの人間だ」
 すると、フェルナン大使は手にしていたグラスの縁を、やたら大げさな仕草で指で弾いて鳴らした。
「うわはははは、言うねえ、君。愛国心に溢れ、真面目な人柄の上に、その度胸の良さ。まったく、私の見込んだ以上だよ」
 精一杯の皮肉のつもりだったが、かえって喜ばせてしまったようである。この人はきっと、些細な挑発など本当にどうでもいいと思える性格なのだろう。職務上、損得で行動するのは当然として、そこに関わらない事なら簡単に受け流せてしまう、ある意味器の大きな人間なのかも知れない。
「よし、それじゃあ早速お祝いしないとね。せっかくだから、私のワインコレクションを開けよう」
「怪我人なのですから、お酒は控えて下さい」
「めでたい事なんだから、そう固いこと言わないでさ」
「あなたの事ではありません。サイファーさんの事です」
 和やかな二人と、未だ顔を赤くしながらチラチラとこちらの様子を盗み見るルイ、そんな三人に囲まれ、自分の周囲がこれまでとは一変したような感触を受けた。いや、実際に変わってしまったのだろうし、これからは普段の生活もこれまで通りとは違うだろう。
 俺の人生は今日を境にして、大きな転換期を迎えたようである。果たしてこの先どういった展開を見せるのか、期待と不安が入り混じった、酷く複雑な心境だった。
 まあ、何とかなるだろう。
 今回だって、何とか切り抜けられたのだから。