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 町外れにある、一つの古びた細い橋。掠れかかった文字で碧橋と記されているのだけれど、何時掛けられたら橋なのかは分からない。ただ、相当古い事が見て取れるだけだ。
 此処へやってきたのは一週間ぶりになるだろう。けれど、明日にはもう東京へ戻らないといけない。今日も本当は用事があったのを、こっそりと抜け出して来ている。本当はこんな我がままをしていられる状況ではないのだけれど、今しか機会が無く、これを逃したらもう二度と叶わないような気がしてならなかったのだ。
「碧?」
 雑草が生え放題の坂を下り、この時間は日が射して明るく照っている橋の下へ足を踏み入れる。そして、いつもそこへ居るはずの女の子の名前を呼んだ。けれど、今日は誰の姿もそこにはなかった。初めての事である。何時来ても碧は必ず此処へ居たし、名前を呼べばとても小さな声だけど必ず応えてくれたのだが。
「まだ来てないのかな」
 そんな独り言を漏らしつつ、僕は川縁の石の上へ腰を下ろす。周囲には人気も無く、時折吹き込むそよ風と川のせせらぎ以外の音も聞こえない。碧と会う前は、よくこんな所で一人で泣いていた事を思い出す。そんなに昔の事ではないけれど、今となっては懐かしく思えるし、此処に来るための目的や心境も随分変わった。少なくとも、人目を避けるような意図は全く無い。
「お父さん、やっぱり死んじゃった。もう火葬も終わって、昨日埋葬してきたところ。凄かったよ。これまで以上に、知らない親戚がどっと押し掛けて来たからね。本当、泣く暇も無かったよ。泣くつもりは初めから無かったんだけどさ」
 誰ともなく、口を開きそう話し始める。独り言にしては声は大きく、すぐ側に誰かが居るかのような口調であると我ながら思う。敢えてそうするのは、ただそれを言えば良い訳ではないからだ。
「それとさ、お母さんとも何とかうまくやっていけそうなんだ。まだちょっと余所余所しいけどね。それでも意気投合する事もあったんだ。一昨日もさ、早速言い寄ってきた嫌らしいおじさんを、二人でみんなの前で怒鳴りつけたりしてね。お母さん、前から親戚連中にはずっと僕と同じような事を思ってたみたいだし、その点は案外気が合うと思うんだ。今まで口も利かなかったからさ、お互いのそういう事知らなくて」
 血の繋がらない継母には、これまでずっと他人のように接してきた。父親の言い付けには忠実に従ってきたつもりだけど、こと継母の事についてだけは頑なに反抗してきた。どうしてそんな事をしたのか。多分、生みの母に対する負い目なのだと思う。母が死んだ時に悲しんで泣いた覚えがないから、その事を母が残念に思っているかも知れない、だから新しい母と仲良くしてはいけない、そんな不安がずっと引っ掛かっていた。正直な所、今でもその気持ちは少しだけ残っている。だけど、それと同じ事を継母にも繰り返すのか、という自責の方がずっと強い。この気持ちが自分を心変わりさせた一番の要因だと思う。
「明日、お母さんと東京に帰るよ。当分は遺産相続の事とかで忙しいだろうし、僕も勉強の遅れを取り戻さないといけないから、いつ落ち着けるか分からないけれど。でも、その内にまた来るから。お父さんのお墓があるのもこっちだからね」
 そう語りかけても、この場に居ない碧の返事はあるはずもない。やはり碧は今日は現れてくれないようである。事情は知らないけれど、何か会えない理由があるのだと思う。結局、碧の事は最後まで分からず仕舞いになってしまった。
 本当はもっと、昨夜は何を食べたとか、今朝は何時に起きたとか、そんな他愛のない事でいいから、碧の事について知りたかった。だけど碧は、自分の素性に触れられる事が嫌なのかも知れない。今までも、碧の事を訊ねるとはぐらかす事が多くて、あまり明言する事がなかったのだから。そして、碧がそんな態度を取る理由も朧気には気付いている。碧は碧であって、ただ人が死ぬ時期が大まかに分かるのと、目が普通の人より赤い事だけ。違いなんてその程度のものだ。僕にとってそんな事は些細な区別でしかなく、取るに足らない事なのだけれど、碧にとってはそうでもなかったのかも知れない。
「さて、悪いけど今日はあまり長居出来ないんだ。お母さん、何か夕飯に色々作って待ってるから。精進上げでね、牛鍋なんだって」
 牛鍋とは何?
 そんな風に碧は訊ねただろう。関西で流行ってる牛肉の料理だよ、と僕は教えてあげたいのだけれど、虚しくなるだけの独り言にはそろそろ気持ちが沈んでしまいそうになってきた。碧が居ると見做して会話すれば満足するかも知れないというのは、やはり無理があったか。
 こうして話していれば、ふらりと姿を現しそうに思えたのだけど、流石にそこまで浮き世離れはしていないようである。でも碧は、本当にそれぐらいしそうなほど変わっている女の子だ。だから、もしや神様の使いではないのか、などと有らぬ妄想もした事がある。
 碧は、普通ではない。
 本当は、もっと早くから何となく気付いていた。だったら何者なのか、一時はそればかり考えていた。願いを叶える神様なら都合が良いだろう。あの世へ送る三途の川の渡し守でも、お父さんと一緒ならそれも悪くないと思う。だけど、そのどちらとも碧は違った。何するでもなく、ただ人のために泣くだけ。普通ではないけれど、特別な事が出来る訳でもない、そんな印象だった。
 多分碧は、泣きたくても泣けない人のために泣いてあげる、そんな優しい存在なんだと思う。泣きたくても泣けない人は、僕以外にも沢山居るだろう。その人のために代わりに泣いてあげる事で、誰かを偲んだり、気持ちを慰めたりする事になるんだと思う。
 自分が不幸になることで皆を幸せにする、並大抵の優しさでは出来ない事だ。僕がお父さんに言われて意識している、上辺だけの優しさとは大違いだ。
 もう少し碧と居られたら、僕でもそういう優しさが分かる事が出来ただろうか。今となっては無い物ねだりになってしまうのだけれど。
 川縁の石から腰を上げ、服に付いた砂埃を払う。石の上から周囲を見渡しても、やはり碧の姿は無い。ただ一人、僕だけがぽつりと立っているだけだ。元通りに戻っただけ、そう割り切れれば良かったのだけれど、やはり言い知れぬ孤独感が襲って来る。多分、此処に碧が居る事が僕にとって当たり前の事になってしまったせいだ。
「もう、僕の代わりには泣かなくていいよ。僕はこれからはちゃんと元気でやっていけるから」
 碧に会えなかったのは残念だけれど、帰る前にこの決意だけでも示して行きたかった。それで碧はきっと安心するだろうと思ったからだ。
 その言葉を最後にし、僕は家路へと着いた。脇目も振らず、ただひたすら家へと向かう。途中何度も、今振り向いたら碧が居るのではないかという未練が出てきたけれど、僕は絶対に振り向かなかった。簡単に意志は曲げない、それが橋の下で泣いていた時の僕と今の僕との違いなのだから。