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 俺の父は、牧師には珍しく厳格な人柄で、幼い頃から俺は父の顔色ばかり伺っていた。やがて物心付く頃になり、父の決めた神学校へ行くことになったのも当然の流れで、その事に対して俺は何一つ疑問も抱かなかった。きっと自分は、父と同じように、将来は牧師にでもなるのだろう。そんな事を思いながら、漠然と神学校時代を過ごした。
 そんな俺が初めて父に意見したのは、ある日父が村長に対して寄付を要求していたのを、たまたま見掛けてしまった時の事だ。持つ者は、持たぬ者に分け与えるべし。それが、神学書にも冒頭の方に書かれている、本当に誰でも知っている基本的な教えだ。何故、父のような厳格な人間が、その教えに逆らうような事をするのか。当時の俺にしてみれば、これまで信じていた事を根本からひっくり返されるような、衝撃的な事だった。
 この事を父に問いただすと、教会の維持管理には金が必要であること、そして家族を養うにも金が必要であること、その上神学校の授業料もまたタダでは無いということ、それら一般論をこんこんと諭すように釈明した。だが当時の俺には、それが納得出来なかった。敬虔な信徒と思っていた父が、突然と単なる教えを乞う側の人間に見え、それからは何を話そうとも言い訳か建て前にしか聞こえなくなった。
 その後、俺が神学校の卒業を待たずに飛び出したのは、父への生まれて初めての反発だった。冒険者になったのも、最初の頃は当面の糊口を凌ぐ手段でしかなかった。とにかく、急激に変わった自分の世界観に、自分自身がついていけなかったのだろう。そんな逃避に近い行動だ。
 あれから何年も経ったが、当時の事を忘れた日は一日たりともない。まだ自分の中で消化しきれていない事はあるけれど、そういう事は巷に溢れていて、何でもかんでも納得がいく事ばかりではないのだと学んだ。だから、もしかすると今ならば、何の先入観も無く父の話をきちんと聞くことが出来るかも知れない。
 そう、俺はもう一度、故郷に帰って父と対面し、話をしたいのだ。だが、今となってはそれも―――。
 そこで俺はふと、ここまでの回想が自分の口で実際に声に出して話していた事に気付いた。
 まだ、自分がある。何を持って有るか無いかを定義するかはさておき、そんな間の抜けた事をぼんやりと思った。
 話している自分を意識すると、今度は自分の輪郭が少しずつ感じられるようになってきた。やがてそれは丸みと熱を持ち、そして仕上げとばかりに唐突に重さがぎゅっと上からのしかかって来た。反射的にそれに反発し、俺は感覚を取り戻したばかりの体を跳ね上げる。
「やあ。気分はどうです?」
 俺は下着だけでベッドに横たわっていた。そしてその傍らでは、安っぽい椅子に座りながら本を手にしているアーリャが、のんびりとした様子でこちらを見ている。
「あ……何だ? ここは?」
「街の宿屋ですよ。もう日も暮れた事ですから」
 安穏と答えるアーリャは、読んでいた本に栞を挟み、備え付けの小さなテーブルからコップと水差しを取り、コップを俺に差し伸べる。受け取ったコップに水が注がれ、ふと喉が酷く渇いている事を思い出した俺は、一気にそれを飲み干した。
 部屋を見渡すと、確かに街のどこかにありそうな古い安宿といった佇まいだった。けれど、あの野盗のアジトからは、距離としては決して近くはない。俺には良くとも、少し走っただけで息の上がるアーリャには辛いはずだ。いや、そもそも意識の無かった俺は、どうやって街まで来たというのか。
「何だ、何がどうなってる? あれから、どうなったんだ?」
「子供達なら、御心配なく。街まで連れて来たら、後は勝手に家に帰りましたよ」
「いや、それはいい。いや、良くはないが、無事に戻ったなら、それでいい。とにかくだ、俺の訊きたい事は別だ」
 恐る恐る、自分の胸から腹にかけてを確かめる。しかしそこには怪我どころか傷一つ無い。俺はここに野盗の刃を不意に食らって、それで意識を失った。刃が背中側近くまで達した感触はまだ思い出せるし、明らかに致命傷に見える大量の出血も同じだ。だが、現にこうして俺は生きている。だったら、あれは夢だったのだろうか?
「それにしても、レナートがこんなに信心深い人だとは驚きました。なるほど、あの教えを忠実に守っていたからなのですね」
 アーリャの言うそれは、先程の俺の回想だろう。もう随分昔の事だけに、自然と表情が強張る。
「聞いていたのか? というか、ずっと喋ってたのか?」
「良くある事ですよ。死にかけた人には」
 あっけらかんと答えるアーリャ。そして俺は再度混乱する。それが事実なら、死にかけたのは夢ではないからだ。
「俺は、どうして無事なんだ? あれは、明らかに助からない傷だったはずだ」
「きっと神の思し召しですよ。神が奇跡を起こされたのです。あなたは、今でも神を信じていますか?」
 まるで、事実を知っていながら、はぐらかすかのような口振りである。そんなアーリャが見せた本、それはレト教の教典だった。世界で最も古く、信者の多い宗教である。俺の父も、レト教の牧師だった。
「お前は信者なのか?」
「もちろん。この教えは、とても尊いものですから。まあ、幾つか間違いはありますが、そこは追々訂正すれば良いことです」
 訂正するとは、どういう意味なのか。アーリャの言う事は時折意味不明で脈絡がないが、何かしら明確な目的が見え隠れする言い方に聞こえる。
「俺は、信仰しているかどうかは分からない」
「分からない? 自分の事なのに?」
「もう何年も、祈ってはいないからだ」
 だから、分からない。
 そう、俺は信者や信仰というもののあり方を疑ったのだ。それで、父に反発したのだ。