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 行方不明になってしまったアーリャだが、それを探しに行くため、ここを離れる訳にはいかない。俺は仕方なく、アーリャはこのまま放っておいて、捜索は後回しとする事にした。どうせ、また俺には良く分からない、勝手な理由で離れたのだろう。まともに相手をしても、損をするだけだ。
 峡谷の山道に入ると、途端に風が強くなった。山間を吹き抜ける風が狭い道へ殺到するため、自然と勢いが増すのだ。左手を見るとそこは切り立った崖で、遠景を見れば緑の山々が連なる美しい景色だが、間近の崖は遥か真下に白く泡立つ程の勢いで川が流れている。運悪く足を踏み外しでもすれば、岩肌や岩石に体を叩きつけられて即死、それを免れたとしても激流に飲み込まれて溺死だろう。そのせいか、馬車も含めて誰もが自然と右寄りになって進んでいった。
 右手は岩が幾つか飛び出した土の斜面で、この山道が山肌を削って作られた名残のようだった。特に崖崩れの補強はされていないが、大きな岩石などが見当たらない事から、そこまでの危険はないのだろう。だが、大雨の際には土砂崩れは起こるかも知れない。
 もし奇襲を掛けるとしたら、今が絶好のチャンスだろう。
 その可能性はほとんど無いと談じてはいたが、生来心配性なのだろう、未だそんな事を考えていた。続いて、右手の斜面から逆落としを仕掛けられたら、左手が崖であるだけに、かなり効果的だろうとも考える。だが、実際にその斜面を見てみると、あくまで垂直にはなっていないだけで、人だろうが馬だろうが駆け降りるにはあまりに急過ぎる角度である事が分かった。もし人間がそれを試みたとしたら、まず間違い無く腰の辺りが浮いて前のめりになり、斜面から飛び出すような格好で墜落するだろう。
 杞憂にすらなっていない、下らない心配だったか。そう自嘲気味に思いながら、何気なく斜面の頂上を見上げる。丁度太陽がそこに重なるほどの高さまで降りていて、木もさほど生えていない事から、思ったより眩しくて目を半開きにする。しかし、唐突にその光がどこからか現れた大きな影に遮られる。
 一体何が遮ったのか。それを理解するのと、それが斜面を転がり始めるのは、ほぼ同時だった。
「気をつけろ! 落石だ!」
 咄嗟に声を振り絞って叫ぶ。その声に対し、何人かが敏感に反応して斜面の方を見る。そして次々と同じ言葉を復唱していった。
「岩だ! 岩が落ちてくる!」
「逃げろ! 早く!」
 だらけ切っていた場に、一瞬で混乱の波紋が広がる。何が起こったらどのように対処する、そういった打ち合わせすらしていない護衛では、この突然の状況にはまるで対処が出来ていなかった。情報の共有に一手間も二手間もかかり、そこから次の行動へ移るのに周囲をおろおろしながら眺める。馬車へ近付き、依頼主を守ろうとする者はまだいい。中には、俺達はみんな護衛であるはずなのに、落石に巻き込まれまいと我先に逃げ出す者までいる。
 何にせよ、そんな連中までいちいち窘めている暇はない。俺はすぐさま御者の元へ駆け寄った。
「走れ! 馬車を走らせろ! 一気にこの山道を駆け抜けろ!」
 そう叫ぶと、唖然としていた御者はすぐに我に帰り、掛け声と共に馬へ活を入れて馬車を走らせる。馬車はガタガタと不規則に揺れながらも、猛烈な速度で走り始めた。それを追うようにして、俺もまた馬車の後をひた走る。その馬車を目にした何人かは、すぐさま馬車に手足を伸ばして同乗しようとする。走るよりも馬車に付いた方が、安全に逃げられると踏んだからだ。
「馬車に取り付くな! スピードが落ちる!」
 そう怒鳴ったが、誰一人として聞き入れる者はいない。ここに来て、やはり高額報酬に釣られただけの者の本性が出たと俺は思った。護衛に素性の知れぬ根無し草など、普通は選ばないものだ。その一番の理由が、まさに目の前のこれである。
 無理やり引き摺り下ろしてやろうか。そう思っていると、
「うわあ!」
 突然、扉の辺りに張り付いていた男が、自ら馬車から落ちる。それから更に、他の張り付いていた者達が次々と振り払われ、あるいは中から蹴り飛ばされていった。それらが一通り片付くと、扉からニーナが顔を出し、周囲の様子を窺う。
「岩は!?」
「もう来ている!」
 ひた走る俺の、本当にすぐ後ろから、爪先から腹の奥まで響いて来る轟音が聞こえてきた。足元がまるで酩酊しているかのように揺れ、砂煙が背中から立ち上るように広がって来る。岩と岩のぶつかり合う轟音は、立て続けに背後から飛び交って来る。どれだけ走る足を早めても、一向に岩との距離は離れてくれない。音が聞こえるたびに、自分が岩に踏み潰される光景が浮かんだ。その恐怖心が、限界まで力を振り絞っている俺に、依然として全力疾走させる余力を与えてくれる。後は、体がその誤魔化しにどこまで耐えてくれるかの勝負だ。何故、こんな土斜面の山から大量に岩が落ちてくるのか、そんな疑問への答えを探すのも後回しである。
 呼吸と落石の音だけの世界を、とにかく走りに走りに走り抜け。やがて轟音が少しずつ遠ざかり、遥か先に追い抜かれていた砂煙に再び追い付いた頃。
「ああ……何とか抜けれたみたいね。もういいわよ、一旦止めて!」
 再び馬車から顔を出したニーナが、冷や汗を拭いながら御者に呼び掛ける。それで俺もようやく足を止める事が出来た。