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 目的だった街道近くに辿り着いた頃、丁度日も暮れかかっていた。夜の方が距離は稼ぎ易いものの、流石に日中は歩き詰めだったため、今日の所は野営をする事にする。とは言っても、ニーナが持っていた僅かな携帯食がある程度で、焚き火を囲むだけの野宿に近い。
 黙々と食事を済ませ、程なく眠りへとつく。本来なら見張りの交代など決めておくべき所だが、あまりにも疲れ過ぎていて、そんな事まで考えようという気にはなれなかった。とりあえず、今夜一晩くらいなら平気だろう、程度にしかお互い考えられなかった。
 疲れた体を横たえ眠りにつくまでの間に、俺はこれからのアーリャの事についてあれこれ考えていた。この先、普通ならアーリャの遺体は傷み始めて来る。船に乗って行くなら、尚更その前にどうにかしないといけない。ただ気になるのは、アーリャの遺体は普通のそれのような気配が何も感じられない事だ。アーリャの遺体からは、そもそも人間らしい臭いさえしない。傷むかどうかよりも、元から生きているのかどうかすら怪しんでしまうほどだ。アーリャを胡散臭いとか得体が知れない等と評するのに、いつも具体的な説明は付けられないのだが、この存在の違和感さの積み重ねがそう思わせるのだろう。
 どの道、船にまでは乗せられない。こればかりは変えようのない事だ。だから、教会か共同墓地かに寄るしかないだろう。そう結論が付いた所で、俺の意識は眠りへと落ちた。
 それからしばらく経ち、眠っているようで眠っていない、真っ暗な所に居る感覚を自覚し始めた頃だった。額には冷たい夜風が当たる感触があり、耳には草木の摺り合う音と薪の弾ける小さな音が聞こえて来る。完全に意識を失って熟睡していたようである。だが、依然と体は疲労感で重く、同じように目蓋も開こうとしなかった。
 あまりに強い睡魔に、もう少し眠ろう、そう思っていると、不意に衣擦れの音が聞こえてきた。意識は混濁していたが、それは二人の内どちらかが起き上がった音だと直感的に思った。衣擦れと足音は静かに焚き火と俺の間を通ると、そのまま何処かへと行ってしまった。ちゃんと目を開けて確認しようとも思ったが、それすらままならない程に眠気が強い事と、行ったのは恐らく夜間に一人でも平気なニーナだろうから、そのまま放っておく事にした。どうせただの用足しである。すぐに戻ってくるだろうし、むしろ下手に絡まない方が良い。そうしている内に、再び意識が真っ暗な中の下の方へ、引っ張られるように落ちていった。
 それから、果たしてどれくらいの時間が経ったか。
 再び意識が真っ暗な中へ浮かび上がって来る。眠っている間も周りの音はちゃんと聞こえていて、時間の感覚も不思議と継続している。混濁した意識を取り戻そうとしていると、不意に思い出したように、先程の足音が出たっきり戻って来ていない事に気が付いた。
 急に湧いた危機感が気付けとなり、俺の意識は鮮明になってそこから飛び起きる。すぐさま周囲を見渡すと、まだ明け方よりも前で薄暗く、焚き火の僅かな明かりでどうにか見えるくらいだった。その焚き火を挟んだ向かい側には、人影が二つ、並んで横たわっているのが見える。目を凝らして確認すると、それは間違いなくニーナとドミニカだった。二人共疲れが酷いらしく、未だぐっすりと眠っている。
 二人共ここに居るなら、さっきの気配は誰のものだったのだろうか?
 とある予感が脳裏を過ぎり、半信半疑のままとある方へと視線を向ける。それは俺が寝ていた場所のすぐ側の大樹の根元で、アーリャの遺体を置いていた所だ。
「まさか……」
 思わずその言葉を口にせずにはいられなかった。そこには、確実にあったはずのアーリャの姿が無くなっていたからだ。
 やはり先程の気配の主はアーリャだったのだろうか? そんな事、有り得るはずがないというのに。
 だが気が付くと俺は、ふらふらと何処かへ向かって歩き始めていた。その足が向く先は何となくアーリャの居場所だと分かり、正確でないにせよ大まかな目星以上の得ていた。自分の事なのに何処か他人事のように見えるのは、未だ頭が眠気でぼやけているせいだろうか。まるで自分が自分で無いかのように、吸い寄せられるかのように林の奥へと踏み入っていく。
 木々が深くなるに連れて僅かな月明かりも射さなくなり、一層闇が濃くなる。ほんの少し先の足下も見えず、目の前に広げた手のひらも輪郭ぐらいしか分からない。それなのに、俺は不思議と躓いたり枝葉で顔を擦ったりもせず、ひたすら歩いていた。もはや自分が自分の支配下に置かれていない。けれど、それついての恐怖心は全く無かった。そもそも感情そのものが麻痺してしまっているかのようだった。
 しばらく真っ暗な林の中を歩いていると、ふと前方に光が射し込んでいるのが見えてきた。あれが出口だろうか。そう思った次の瞬間、俺は突然と躓き、転倒してしまった。夜露に濡れた草木のつんとする匂いに顔をしかめながら、すぐさま起き上がる。そして、いつの間にかあのぼんやりした感覚が消え去り、自分が自分の支配下へ戻っている事に気が付いた。
 何が何だか分からない状況だったが、とにかく危険な暗闇の中から出たい。そう思い、俺は残りの道を足早に踏破して林から抜け出る。だが、
「え?」
 林を抜けたと思ったそこは、まだ林の中だった。湧き水が溜まった池、その周囲には青緑に輝く苔のようなものが生えている。ここだけは周囲の景色がはっきりと見えるほど明るいから、それを見間違えたのかも知れない。
 その池の縁に、死んだはずのアーリャは自分の足で立っていた。それだけでも信じられない光景なのだが、目の前のアーリャはあろう事か、不気味とも神々しいとも映る柔らかな光を全身から放っていた。