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「え、殺したの? あれだけ言っといて」
 居間に運び込んだ手下の男を囲みながら、ニーナは呆れた声で溜め息混じりに吐き捨てる。
「いいえ、まだ死んではいませんよ。ちょっと意識の自由を奪っただけです」
「こっちから手を出した事に変わりはないでしょ。それで、どうするの? これはもう宣戦布告と同じ事だし、連中にバレるのも時間の問題よ」
「そうだよな……。ったく、何て事をしてくれたんだ」
 俄かにずきずきと鈍痛の走り始めた額を押さえながら、俺は深く溜め息をついた。確かにあの時は、アーリャの事などまるで注意をしていなかった。けれど、まさか問答無用で攻撃するなど思ってもみなかったのだ。今までの行動を振り返れば、推察くらいは出来たはず。それが出来なかったのは、どこかでそんな事は起こらないに違いないという油断があったせいだろう。
「大丈夫です。実は、私には良い考えがあるんですよ」
「良い考えだ?」
 自信満々に語るアーリャに、俺は訝しみの視線を向ける。
「今から彼を、少しばかり矯正します。その後に帰してやる事で、連中もどんどん改心していくでしょう」
「改心ね。そう簡単に信条を曲げて宗旨換えするとは思えないが?」
「その時は、それまでです。ここに来る連中を片っ端から更正していくだけですから」
 アーリャの言う、矯正だの更正だのからは穏便な気配が微塵も感じられない。それはともかく、アーリャはやはり奴らを相手に全面戦争をするつもりになっている事だけは明らかだ。少しは穏やかになったかと思いきや、要は鮎の友釣りをしようとしているだけに過ぎない。結局の所は、連中を一網打尽にしなければ気が済まないのだ。
「そうそう上手くいくとは思えんな。お前、少し楽観過ぎやしないか?」
「人の主義主張は、どれも尊ぶべき尊いものです。ですが、他の人に害を撒き散らすものは、速やかに摘むべきです。そうすることで、人類全体がより清く正しくなるのですから」
「そういう事を言ってるんじゃない。連中が、お前の思惑通り動いてくれるか、って話だ。手下に何かされたと血気盛んになって向かってくるなら、それはそれで対処の仕様がある。だが、警察やら政府筋に手を回して搦め手で来たら、何のコネもない俺達は一巻の終わりだぞ」
「御心配なく。それはありませんから」
「どうしてそう言い切れる?」
「善き者は、善き加護に恵まれるのです。よって、私達は幸運を得て当然なのです」
 アーリャのあまりの言に、再び額の奥がずきずきと痛み出す。やはりアーリャは何も考えてはいないようだ。加護とか運の良さとか、そんな曖昧なものを根拠にするなど論外ではあるのだが、アーリャの出自を考えるとあながち有り得ない事も無いと思わせてしまうのがたちの悪い所だ。
「それでは早速、彼には真人間になってもらいましょうか」
 何も話がまとまった訳ではないが、アーリャはさも当然のように自分の都合で話を進める。床に寝転がりながら昏睡してしまっている手下の傍らに屈み込むと、また先程と同じように彼の額の辺りを鷲掴みにする。そして何やらぶつぶつと唱え始めた。
「ちょっと待って。本当に、殺す訳じゃないよね?」
「似たような物ですよ。悪人としての人生は、今ここで終わって貰いますから」
 もはや生かしていても仕方のない状況にはなってしまったが、せめてイリーナとシードルの前では止めて欲しい。そう思い一旦制止しようとした次の瞬間、アーリャが触れている手下の額からごとりとやけに重い音が響き渡った。そんなあっさりやってしまったのか。そう慌てるのも束の間、今度はその手下の男が唐突にむくりと上半身を起こした。
「あっ、これはすみませんでした」
「え? あ、ああ、いや……」
 手下の男は、目覚めるなりやけに丁寧な言葉使いでそう一礼する。俺は訳が分からず、曖昧な返答だけする。
「それでは、大変御世話になりました。これで失礼させて頂きます」
 そう述べるや否や、慌てて家から出て行った。ここに来るまでの経緯を忘れてしまったかのよう見受けられる行動だが、それ以上に今の行動には何か作為的なものすら感じられる。自分以外の誰かに強制されたかのような、そういう違和感だ。
「これで一安心です。以後、彼は世のため人のために生きることを最上の喜びとするでしょう」
 満足げに頷くアーリャ。確かに害はないかも知れないだろうが、かなりえげつないやり方をしたように俺は感じた。以前のアーリャは、悪人はどれだけ小身であろうとも殺すべきだ、という信念を持っていた。しかし今のアーリャは、どうやら殺す事に固執はしないが、その代わりに人格を変貌させてしまうようだ。あの手下の男にしても、思わずぞっとするような変わり方だった。この手順で世界から悪人という悪人を消すつもりなのだ。
「これ、時間稼げるかしら?」
「どうだろうな。あいつ、これからどうするんだ?」
「しばらくは人目につかないように強制しておきましたので、特に何もありませんよ」
「強制、ね。まあ、それでこっちから一旦目が逸れてくれればいいけど」
「その間に、今度こそちゃんとした対策を考えないとな」
 ニーナと顔を見合わせ、どちらからともなく溜め息をつく。その様子を、アーリャが傍らから不思議そうに見ていた。