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「しかし、クワストラ政府も大概だね」
 そう呆れ口調で話すのは、グラスを片手にしたヤーディアー大使だった。
「経済状況が良くないのは分かるけれど、こんな中で入札会を強行するなんてね。もっと、出席者達の安全を考えて貰いたいものだよ」
 もっともな意見だと、俺は頷く。経済は重要だが、目先の自分の安全に目をつぶるのは本末転倒である。けれど、どうにも会社勤めの人間達は、そういう価値観ではないようだ。
「おそらく、クワストラ政府は二度目は無いと考えているのでしょう。予算確保のための国債発行にも限りがあり、年々利率と評価が反比例している状況ですから。今回ほどの事業を自力で行う資金力が無いのやも知れません」
「そこで、君達は足元を見ているのだろう? まったく、企業人というのは業が深いものだ」
「いやはや、手厳しいですね」
 そうニコライは頭を掻きながら苦笑いする。だが正鵠ではあるのだろう、決してヤーディアー大使の言葉は否定しなかった。
「明日の入札会は、予定通り行われるとして。それであの事件ついて、クワストラ政府は結局の所はどういう見解で、どのように対処するのかね?」
「私が聞いた限りでは、今まさにサハン外務相以下一同が目下協議中のようです。もしかすると、今夜中には決まらないのかも知れませんね」
「やれやれ、冗談ではないよ。まったく。私は、ただのパーティーだから顔を出しに来ただけだというのに。まさか、こんな危険な状況に晒されるとはね」
 そう愚痴りながら、ヤーディアー大使は再びグラスへ酒を注いでは飲み干す。一応、公務の範疇であるとは言っても、確かに目の前で殺人事件が起きたばかりか、その対応について未だ協議中とあっては愚痴の一つも言いたくはなる。そもそも、こういう事態が起こらぬよう細心の注意を払っていると言っていた筈なのだ。それがこの様では、苛立ちも不安も仕方がないと言える。
「ともかく、閣下の御身は私が必ずお守り致しますので」
「本当に君を連れてきて良かったよ。そうでもなきゃ、生きた心地がしない」
 そう語るヤーディアー大使からは、冗談や大袈裟に言っているような様子は感じられなかった。嘘偽り無く、それほどまでサーブラウを信頼しているのだろう。ラングリスの周辺は、これまで幾多の戦争を繰り返してきた大小無数の国家が存在する、火薬庫のような地域だ。外交官も、いつ何処で紛争に巻き込まれたりするのか分からないのだ。大使ともなれば、専属の警護がいなければおちおち外出も出来ないだろう。
「ところで、話は変わりますけれど。ニコライさん、例の調整会というのは、今日のいつ頃開かれるのですか?」
 唐突にアーリンがそんな事をニコライに訊ねる。俺は内心舌打ちをしたくなった。また余計な事を思い付いたか、という考えがまず先行したからだ。
「あと一時間ほどですよ。場所は、先程の会場を借りるそうです。それが何か?」
「私も、そこに混ぜて貰おうと思いまして」
 その発言に、流石にニコライも表情が硬直する。
「いえ、集まるのは我々のような企業人ばかりですから。アーリン様が参加されても、非常に退屈されるかと」
「何も、お邪魔になるような事はいたしませんから。ただ、企業や財界人の方々はどのようなお考えでいるのか、もっと意見を集めたいのです」
「そう仰られましても……」
 ニコライから困窮した様子が窺えた。自分の領分にまで踏み込まれるとは思ってもいなかったのだろう。明らかに歓迎していない様相である。ただ、懇意にしている大使の実子だけに、強くは言えないのだろう。
「アーリン、彼らには彼等の仕事がある。邪魔をしてはならない」
 自分では言えないであろうニコライに、俺は助け船を出すべくアーリンをそう窘める。しかし、
「邪魔なんて、するつもりはありませんよ。ただ、会場の隅にでも入れて頂ければ、それで結構です。後は私だけで大丈夫ですから」
 と、はっきりした口調で断言されてしまった。
 それが大丈夫ではないから、ニコライは困窮しているのである。それに、集会の主旨とは合わない人物とは言っても、一国の大使相当の人物が同じ場にいて、それを無視するという事は出来ないものだ。
「何にせよ、外が安全である保証はない。さっきも言ったが、君を部屋から出すつもりはない」
「安全かどうかなんて、この部屋だって分かりませんよ? もしも本気で人質なりに取ろうとするなら、部屋のマスターキーを取ってくれば済みますし。それに、あんな扉くらい、力ずくで破れますよ。もしもそうなったら、かえって逃げ場も人手もないこの部屋の方が危険ではありませんか?」
 してやったり、という顔でアーリンが堂々と反論する。確かにその考えには一理あるが、部屋に籠もっていた方が安全である事に変わりはない。結局のところ、部屋に居る分には出入り口一つ守るだけで済むからだ。
「まあ、アーリンちゃんの言い分も分からなくもないがね。少しくらいなら良いのではないかな?」
 そんな中の事だった。
 唐突にヤーディアー大使が肯定的な言葉を発した。あんなにこの状況を嘆いておきながら、まるで正反対の事を言うなんて。そう驚く俺を尻目に、ヤーディアー大使は更に言葉を続ける。
「こういう時は、かえって孤立する方が危ないのだよ。人質を取るなら、少ない人数の集団を襲うからね」
「けれど、他にも自室に籠もっている人は多く居るのではないでしょうか?」
「いやいや、おおよそ社会的地位のある人間は皆、身の安全を守る事に関しては敏感なものさ。フェルナン先輩もそうだったよ」
 しかし、当の本人は何度も誘拐の憂き目に遭っている。果たして、彼ら大使の勘というものを信じて良いものなのだろうか。
 そんな意図を込めて、専門家であるサーブラウへそっと視線を送る。けれど、遠慮がちに頷くだけで、特にこれと言った反応は見せなかった。一度安全だと断言した上での、この状況である。心情的には、あまり出しゃばりたくないのかも知れない。