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 和やかに進んでいた談笑も終わり、アーリンは丁寧に一礼して席を立った。一旦会場の中央付近へと戻り、そこで再び次の機会を待つのである。
 時間にして、十分やそこらの短い会話だったが、得られた情報は決して少なくはない。特にクワストラ側の情勢と、それを受ける企業や名士達側の不安は、今後に判断を迫られた時には大いに役立つものである。アーリンはこれを知っていてやっているのか、それとも天性の素養でやっているのかは良く分からない。ただ、俺が思っている以上に、外交官らしい立ち回りが出来るという事は確かである。
「それにしても、かなり複雑な状況になっていますね」
 企業達の調整会を遠目に、アーリンは溜め息混じりにグラスの水を傾ける。自社の利益以外に興味など無い、そう言わんばかりの彼らに対する皮肉にも聞こえる言い種だ。
「入札会が終われば何とかなると思っていたが、クワストラ政府が犯人を確保するまで帰港しないとなれば、こちらとしても打つ手がない。そもそも、本当に犯人など見付けられるのかが疑問だ。サーブラウの証言が正しければ、共犯者達が同じクワストラ政府側に居るのだから」
「ファルス号の備蓄も無限にある訳ではありませんから、どの道いずれは必ず帰港はする筈です。後は、クワストラ政府の体裁と、拘束される各代表の不興との兼ね合いでしょうか」
「不興は既に買っているだろう。此処に漠然と名士達が集まって来ているのだから」
「そうですね。後は何かきっかけがあれば、それが表面化する訳です」
 各企業が、自国の名士や政府関係者を同行させた事が、今になって大きな鍵になってきたように思う。もしもこの入札会が企業人だけが参加したなら、この状況でクワストラ政府が一方的な対応をした筈である。しかし、国の代表者達が居る今は、クワストラ政府側はそれに配慮した対応をしなければならない。万が一、大使や外相の不興を買ったり、はたまた身辺に危害がおよぶような事があれば、それはそのまま外交問題に発展する。クワストラ政府も、それだけは避けようとする筈だ。
 わざわざ大使を連れ出すなど、単なるクワストラ側へのアピールだけかと思っていたが、もしかするとこういった不測の事態にクワストラ政府側へ牽制するためだったのかも知れない。
「これは、アーリン様」
 不意に声を掛けて近付いて来たのは、ホルン商会のデリングだった。相変わらず折り目正しく爽やかな立ち振る舞いである。
「あら、こんばんわ。お仕事は宜しいのですか?」
「ええ。弊社としては、あまり欲張っても投資額ばかり膨れますから」
 そう笑うデリングは、先程のサザンカ商会の面々と同様に余裕のある様子だった。
 ホルン商会は、クワストラ国に不凍港を獲得するのが今回の目的である。立地的にもリンデルランドとクワストラは大分離れているため、今回はあくまで拠点の確保にのみ注力し、それ以上の無理は初めからするつもりが無いのだろう。
「それにしても、夜会では大変な事になりましたね。御無事でしたか?」
「ええ。私には、優秀な護衛がおりますから」
「それもそうでしたね。けど、事件はまだ解決とはいかなさそうですよ。先程、クワストラ兵の方々から話を聞いたのですが、向こうも向こうで大分紛糾しているようです」
 すると、デリングはおもむろに周囲を気にし、声を潜めて話し出した。
「どうやら、クワストラ兵の中に共犯者が居るそうなんです。我々の間でもまだ周知されていませんが、実際に何名かの疑わしい兵士が船底に隔離されたようです」
 クワストラ兵の中に共犯者がいるというのは、サーブラウも危惧していた事だ。これで複数の情報筋からの事となり、信憑性も高まってくる。
「それでは、クワストラ政府はどのような対応をするのでしょうか。今現在、最高責任者となるのはサハン外務相ですよね」
「そうですね。ただ、まだ事態の把握と対応方針の協議中とかで、発表出来るコメントは無さそうです。ただ」
「ただ?」
「実は、もう一つだけ。とっておきの情報があるのですが」
 デリングは、更に声を潜めてそう語る。もはやわざとらしさすら感じる素振りだ。
 その情報はどこまで信頼出来るものなのか分からないが、アーリンが甘言に惑わされぬよう、俺も密かに聞き耳を立てる。
「ええ、対価は戴きません。我々ホルン商会の名刺代わりと思って頂ければ、それで構いませんので」
「もちろん、デリングさんには大変お世話になりましたし、その恩をおいそれと忘れはしませんよ」
 それでは、とデリングは再度周囲を確認すると、小さな声でそっと囁くように語った。
「実は、あの暗殺劇の実行犯ですが。既に捕まっていて、現在は船底に拘束されているようですよ」
「実行犯が!?」
 あまりに意外なデリングの言葉に、アーリンが思わず声を上げる。デリングは慌てて声を潜めるように言い、聞かれてまいかと周囲を見渡す。幸運にも、調整会の方が白熱し声を荒げる者まで居たため、どうやらアーリンの声はさほど目立たなかったらしく、誰もこちらの様子を窺う者は居なかった。