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 朝、エリックは普段通りの時間に起きて普段通りに出勤して来ると、特務監査室には誰も来ては居なかった。あまりに早く来過ぎたのかと思い、壁の時計を見る。時計の針は定時である午前九時の十分前を指していて、決して早過ぎる時間ではない。どうやらここの課は、仕事が特殊で尚且つ規律も緩いせいか、登庁時間もみんな曖昧なのだろう。そう考えたエリックは、溜息を一つついて自分に与えられた机に向かった。
 まだ着任してから二日目であるため、机の中には文字通り何も入っていない。昨日の業務も、朝の一件後は雑談ばかりで終わってしまい、仕事らしい仕事は何も無かった。それ以外にも、基本的な日常の管理など様々教わるべき事はあるはずだが、そういったものは都度口頭で伝えて終わりという課風らしく、エリックには尚更この特務監査室というものがいい加減で異様な部署であるように感じた。
 九時五分前となり、それでもまだ誰も登庁して来ない。エリックは自分の鞄から、一冊の厚いファイルを取り出し、付箋を頼りにとあるページを開いた。それは各省庁に共通した決まり事や規則などをまとめたページで、エリックが新人研修から個人的にファイリングし分かりやすく編集されている。そしてエリックが着目するのは、転属願いの項目だった。セディアランドに勤める官吏は、一部の上級職を除いて基本的に自らが望む部課へ転属する事が出来る。当然、受け入れ先の事情など様々な条件はあるものの、転属自体を拒絶される事は無いのだ。
「こんな所、まともにやっていける筈がないよ……」
 そんな事を呟きながら、転属に必要な条項や書類などを確認する。そして、程なくエリックはがっくりと項垂れた。転属には余程の事情が無い限り、最低でも一年間の業務実績が必要であること。更には、転属元と転属先の双方での上長の合意が必要であることが記されていたからだ。今すぐここから出て行く事は不可能であるし、また自分には転属先の当ても無い。要するに、ただとにかく此処から出たい、という要望は絶対に通らないのだ。
 やはり、一年間は我慢しなければならない。そしてその間に、何処かもっとまともな部署の上長と顔見知りになっておかなければ。そう歯噛みしながら、エリックは自作ファイルを鞄へと仕舞った。
「おはよー。あれ、早いねえ」
 突然とドアが開き、明るく悪びれずルーシーがやって来る。エリックは反射的に立ち上がって挨拶する。
「お早うございます。今朝は何かありましたか?」
「あったって、何が?」
「何がって……いえ、ほら」
 エリックが視線を時計へと向ける。時計の針は既に九時を十五分も過ぎている。
「んー、いつもこんなものだよウチは? 働く時は働くし、休める時は休むって風潮だからねえ」
「室長とウォレンさんも?」
「多分そうじゃないかなあ。あ、室長は仕事かも。時間がもったいないから、本庁なんかに直行する事もあるし」
 そんな事を言いながら、ルーシーは自分の席ではなく応接スペースのソファに座ると、手にしていた包みをテーブルの上で広げ始めた。
「あ、ちょっとコーヒー淹れてくれる? 私のマグはそこにあるから」
「はい、ただ今」
 エリックはてきぱきとコーヒーを準備しながら、一体ここはどうなっているのだと心の中で愚痴る。ルーシーは元より、未だ登庁していないウォレンもいい加減過ぎる。まともなのは室長だけのようだが、二人をやりたい放題にさせている以上、あまり頼りにもならないだろう。ああいった管理職はたまにいる。何事も当たり障りなくする事が、業務を円滑にすると思い込んでいるタイプだ。
「どうぞ」
「お、ありがとねー」
 エリックが差し出したマグを受け取ったルーシーは、美味そうにパンを頬張っていた。テーブルを見ると、他にもパイや果物などが並んでいる。どれも出勤途中の商店街で目にするものだ。今朝もこれらを売っているのを見かけている。
「あの、これは朝食ですか?」
「そうよ。朝はちゃんと食べないと、ウチの仕事はハードだからねえ」
 だからと言って、こんなに堂々と職場で食べるものだろうか。
 そんな疑問を抱きつつ、エリックはそれ以上言及はせずに自席へ戻った。
「おーっす、ちょっと遅れた」
 やがてルーシーの朝食が終わる頃になって、ウォレンがだらだらと登庁してきた。こちらもやはり、遅刻してきた事について何も悪びれていない。
「遅刻ですよ、先輩。弛んでるんじゃないですか?」
「そう言うなよ。ちょっと寝坊しただけじゃねえか」
 自分のことは棚に上げてルーシーが批難する。よくもまあ堂々と言えるものだと呆れつつ、エリックはあえて首を突っ込まない事にした。
「室長は……なんだ、本庁に行ってるのか? まあ、いいや。おい、今日は午後から出掛けるぞ。仕事だ」
 仕事。その言葉に、エリックが真っ先に反応する。
「それは、また昨日のようなものですか?」
「うーん、どうだろうな。まあ、死んだりはしねえ類だと思うから安心しろよ」
 そう笑うウォレンに、エリックは内心苛立ちが込み上げていた。死ぬ死なないの極端な仕事に、自分は就いた覚えがないのである。
「外出って何処ですか、先輩?」
「ああ、東六地区の資産家の所だ。数日前に殺人事件があってな、ようやく殺人課の調査が終わったんで俺達が入れるって訳だ」
「殺人事件って……さっき、死んだりしない類って言いましたよね!?」
「死んだりはしないだろ。だって、ガイシャはもう死んでるんだから」
「そういう意味じゃありませんよ! うちが行くって事は、そういうオカルトで人が死んだ可能性があるって事でしょ!? だったら、僕達も標的にされるかも知れないじゃないですか!」
 仕方なしにここの業務を続けるとして、自分の命が脅かされるような事になど首を突っ込みたいはずもない。未だオカルトなど信じはしないが、実際に人が死んでいる事件になど関わりたくはないのだ。
 そんなエリックの反応を見て、ウォレンはぽんと手を叩いた。
「おい、ルーシー。今の聞いたかよ? うちが行く、だってぞ。この新人、早くもここの一員になったって自覚が芽生えて来やがった!」
「そりゃ、私の教育がいいからですもの。頼もしくなるに決まってますよ」
 関心する二人に、エリックは更に猛烈に噛みつこうとして逆に言葉が喉につかえてしまった。
 このままでは本当にまずい。言われるがまま、されるがままに流されてしまう。
 エリックは、既に自分の片足が底なし沼に絡め取られているような感覚を覚えるのだった。