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 郊外に位置するその療養所は、一見すると特にこれと言って何の変哲もない療養所なのだが、実際は法務省の管轄下にある特別な施設だった。主に犯罪者を収容する病院はあるのだが、ここはそれとはまた別に管理下に置きたい特殊な身の上の患者を収容する施設である。そして何よりも異なるのが、職員はここがそういった患者を集めた場所である事を知らない点だ。
 エリックが受付口で手続きをした後、三名は二階奥にある応接室へと案内される。そして、目的の患者が来るまでしばし待機した。
「療養所って言っても、思ったより普通ですねえ」
「ここのほとんどの職員は、ここが法務省の管理下って知らないからな。ま、補助金貰ってる所長と周辺くらいだろ」
「その患者さんって、レッドアロー峡谷で自殺未遂って事なんです?」
「正確に言や、単なる失敗だ。崖から飛び降りたはいいが、運悪く助かっちまったんだと」
「えー、どうして助かるんですう? 普通は死ぬでしょ」
「途中、岩肌に何度も引っ掛かって減速したのと、たまたまその日は地域の定期巡回で通りかかった管理員に発見されたからだそうだ。もっとも、二度と歩けない体の上に、オツムにも重度の障害抱える羽目になったがな。おかげで、二度と自殺したいとすら考えられないんだと」
 ウォレンの角が立つ言葉選びはともかく。仮に助かったとしても、そういったハンデを背負う事になったのはとても幸いとは思えなかった。それに、自殺するに至った原因も取り除けていないなら、何の解決にもなっていないだろう。
「ウォレンさん、本当にそういう話し方は止めて下さいね。特務監察室の心象を損ねますから」
「お、なんだ。一員としての自覚が芽生えたと思ったら、今度は仕切り始めたぞ。コイツ、まさか下克上狙ってるんじゃねえか?」
「茶化さないで下さいよ。僕は真面目な話をしているんですから」
 エリックの訴えも、ウォレンはまるでまともに聞こうとはしない。こう飄々と悪ふざけをしたり不謹慎な単語を吐いたりと、時折ウォレンは酒に酔っているようにもエリックの目には見えた。特務監察室にはそもそもまともな人間は居着かないから、こういう人間が残ってしまったのではないか。そんな風にすら思える。
 それから程なくして、応接室に先ほどの職員と、もう一人車椅子の男性が入ってきた。
 エリックは彼の姿を見て、思わず息を飲んだ。顔の大半は包帯で覆われて風貌は分からないが、それでも明らかに頭部の輪郭が変形している事が見て取れる。両手は感覚があるのかどうか、だらりと下へ投げ出されたまま。両足は膝から下が欠けてしまっている。そして、何よりもエリックを戦慄させたのは、彼の人形のように虚ろな目だった。視線はこちらを向いてはいるようだったが、視点は定まらずぼんやりとしている。おそらくこちらを見てはいない、いやそれ以上に思考そのものが目から感じられない。人間とは、こんな状態でも生きられるのか。それがエリックの素直な感想だった。
「聴取は五分とさせて頂きます。その前でも、患者さんに適切ではないと判断しましたら、その時点で打ち切りますので」
「はい、ありがとうございます」
 答えたのは、突然と神妙な様子になったウォレンだった。先ほどまでの軽口が嘘のように無くなっている。本人の惨状を目の当たりにして、気持ちを改めたのだろうか。
「こちらも、知りたいことはただ一点だけです。あなたがレッドアロー峡谷へ行った経緯は、どのようなものでしょうか? あそこを選んだきっかけは何ですか?」
 出来る限り言葉を選んで慎重に問うウォレン。それを受けてもピクリともしない彼に、職員は小声でそっと耳打ちするように訊ねてみる。慣れた職員の声には反応するものなのだろうか、彼は小さくなった体を僅かに揺すりながら、口を不自然に大きく開いた。
「知ら……ない。分からない」
 掠れた震え声で、どうにか絞り出したその二つの言葉。意味はともかく、意志の疎通が取れただけでも十分てはないかとエリックは思わず思ってしまった。
「知らないとは、レッドアロー峡谷へ向かった理由の事ですか? それとも、レッドアロー峡谷の存在そのもの?」
「どっちも……どっちも……!」
 つまり彼は、レッドアロー峡谷の存在は知らないだけでなく、何故そんな所へ行ったのかも知らない、憶えてすらいないという事なのだろうか。だが、それには違和感を覚える。自殺の名所として知らなかったのなら、どうして理由も無くそんな所へ行って自殺をしたりしたのだろうか。むしろ、誰かの策謀に嵌められて殺されかけたようにすら思える。それとも、単に酷い怪我のせいで何も分からなくなってしまってのだろうか。
「何も分からないまま、あんな所へわざわざ足を運んだのですか?」
「嫌だった……嫌……」
「嫌だった? 本心では、行くつもりはなかったと? なら、何故あんな所へ行ったのですか?」
「嫌なんだ……嫌なのに……」
 ウォレンの問い掛けに対し、彼は同じ言葉ばかりを繰り返し呟いた。その様子を見て職員が、もう此処までだと言わんばかりの表情で睨む。ウォレンもまた、そこで強引に話を聞き出そうとはせず、意外なほど神妙に一礼だけして自ら終わりを告げる。エリックは、実に彼らしからぬ態度だと疑問に思った。