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 エリックは、自分の持ち物にこれといってこだわりがある訳ではなかった。よく使う物は多少高くて良いもの、それ以外は安物で十分。特に日常的な消耗品に金をかける必要など無い。そんな、さして珍しくもない基準で買い物をする。その日の朝の登庁途中、そろそろ切れそうな万年筆のインクを商店で買い足した。買ったのは当然一番安いインクで、インクの書き心地にそれほど差があるとは思っていないからだ。
 執務室へ入ると、今日は珍しくエリックが一番最後だった。室長は書類を相手に、ウォレンは新聞を食い入るように見詰め、ルーシーは万年筆のインクを入れ替えている。
「ルーシー先輩もインクが切れたんですか?」
「そうなの。この仕事って、どうしてもすぐに切れちゃうからねえ」
 普段ルーシーがインクを減らすような仕事をしているのかは疑問だが、確かに書類だけはどんな業種よりも多く書かなければいけない仕事ではある。エリックも、学生時代よりインクを変える頻度が増えたと実感している。
「あら、インクくらいだったら備品で補充出来るわよ」
 ふと室長がそんな事を教えてくれる。
「え、そうだったんですか? 失敗したなあ、今朝買っちゃったばかりなのに」
 替えのインクくらい大した金額ではないが、払わなくていいのなら払いたくないと思うのが人情である。エリックは実に損をしたと妙に自分の失敗が心残りになる気分だった。
「でも、備品のインクって安物じゃないですか。私、あれキライなんですよねえ。書き心地が引っ掛かる感じで」
 そう言うルーシーの机の上にあるのは、数ある替えインクの中でも比較的高級な部類のものだった。金額だけで言えば、エリックが普段購入する物の三倍はする。決して手が届かないと言うほどのものではないにしろ、あまりそこまでの金を出す理由も見当たらないものだ。
「そんなに違うものでしょうか?」
「キミもね、沢山仕事をするようになれば分かるよー」
 少なくとも、書類の処理だけなら室長に続いて二番目の量を捌いているのだが。どの道、今更高いインクに変えるつもりもないため、エリックは適当に聞き流す事にした。
 特務監察室は、普段はこうやって無為な雑談をしながら時間を過ごす。仕事がなければ本当にやることがないのだ。今日も過去の資料でも漁って備えをしておこう、そんな事を思いながらエリックが自身の万年筆のインクを入れ替え終えた頃だった。
「失礼します」
 突然と執務室へ一人の男がやって来る。ここを訪れる人間は圧倒的に稀な事もあって、エリックは内心驚いてしまった。そして彼が、特務監察室へ要件を持ち込む数少ない部署、特務調査室の人間である事は雰囲気ですぐに分かった。
 特務調査室。それは、特務監察室と同じ首相直属の独立組織である。こちらはその名の通り、都度必要な諜報活動を行う。仕事の概要は一般人でも知っているが、実際の内容は機密情報ばかり。特務監察室と良く似て非なる組織だ。
「あら、何かありましたの?」
「はい。この件をお願いいたします」
 そう言って男が差し出してきた一枚の書類を室長は受け取る。そして男は要件は済んだとばかり、すぐさま執務室を後にした。実に淡々とした機械的な振る舞いである。合理主義なのがセディアランド人の特徴とは言え、これは合理主義とは異なる振る舞いだ。
「調査室の人って、なんか嫌な感じですよねえ。余計な情報は与えません、ってばかりの態度で」
「仕方ないでしょう、身元が割れるだけでも致命的な部署らしいですから。それよりも、調査室は何を持ってきたんですか?」
「聖都に錬金術師が居たようなの。その身柄を確保しなさいって。あらあら、久し振りねえ。まさか、まだ聖都に居たなんて」
 そういつもの緩い笑顔を浮かべる室長。
 錬金術師。その響きにエリックは、思わず幼少の頃に読んでいた児童向け文学を思い出す。錬金術師は魔女と同じくらいの頻度で使われるキャラクターだ。怪しげな力を使い、登場人物を翻弄する。そして魔女と決定的に異なるのは、魔女には良い魔女が存在するのに対し錬金術師は漏れなく小悪党である事だ。人々のためになる錬金術師など存在しない、そんな作者間の共通認識が垣間見える。
「錬金術師って、実在するんですか?」
「ええ、もちろん。もっとも、履歴書の職業欄には書けないけどね」
「要するに、異端の化学研究をやってる奴らの総称って事よ。で、異端だけあって生ゴミを作るか爆薬の密造しかしない、ろくでなしばっかりなのよー」
 化学分野においての異端な存在を、ルーシーの言うように俗な呼び方で錬金術師と呼んでいる事は理解できた。エリックは、一瞬でも児童文学の錬金術師が実在するのではと思った事を深く恥じる。
「流石に爆薬の密造はマズいですけど。でもそれって、僕達の仕事なんでしょうか? 他に適切な部署がありそうですけど。警察庁とか」
「うちに回ってくるという事は、ただの錬金術師って事じゃないのよ」
 そう微笑みながら、室長は調査室から受け取ったばかりの書類をエリックへ見せる。そこに書かれていたのは、ある一人の青年の経歴だった。
 聖都の大学へ入学を機に聖都へ引っ越し、卒業後も同じ住所へ在住。職業は化学薬品メーカーに務めているが、希望した研究職ではなく製造管理の担当。そのフラストレーションからか、入社半年後に錬金術へ傾倒を始める。
 いささか自分と重なる部分もあるように思ったが、別段この経歴について不審なものは感じられない。仕事の不満をプライベートで解消する方法を見つけただけとしか思えない。
「あの、これだけですと何が問題なのか良く分かりません。どういう事なのでしょうか?」
「うちに回って来たという事はね、この人は金の密造に成功したって事なのよ。つまり、本来の意味での錬金術師なの」