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 その日ウォレンは、朝から書類の束と格闘していた。見るとそのほとんどが領収書で、一月分の経費精算の手続きをまとめて行っているようだった。
「またそんなに溜め込んじゃって。先輩はどうしてこまめに処理しとかないんですか?」
「何だよ、うるせーな。放っておけよ」
 ルーシーの軽口に、ウォレンは不機嫌そうに吐き捨てる。しかしその間も忙しなく手を動かし、視線は書類に向けられたままだ。
 特務監査室は、普段は特にこれといった定例業務は無く、暇な事が多い。何らか事件などがあればそれこそ付きっきりになりはするが、他の省庁に比べれば楽な方だろう。それでも一月もすれば、このぐらいの領収書が溜まる。月が変わると精算の手続きも更に面倒になるため、普通はこのように月末にまとめてやろうとは思わない。逆に言えば、まとめてやろうと思えば出来る程度しか無いという事でもある。
「チェック手伝いますよ。これだけあると、記入ミスも起こりそうですから」
「おう、悪いな。じゃあここから頼むぜ」
 午後になっても終わる気配が無い事に見かねたエリックが、ウォレンの精算手続きを手伝い始める。一方でルーシーは、まるで興味が無さそうに何かの雑誌を眺めている。基本的にルーシーにしてみれば他人事であって、手伝うといった発想は無いのだろう。
 当初は気の遠くなるような作業に思えたそれも、夕方になる頃にはすっかり終わらせる事が出来た。締め切りも迫っている事もあり、ウォレンは意気揚々と精算を済ませて戻ってくる。これで何もかも片付いたといった表情をしているが、きっと普段からこまめに精算を済ませておくといった考えは未だ芽生えないのだろう。たったそれだけの事で、月末ごとにこんな目に遭わずに済むのだが。その事について何度か提言はしているが、聞き入れられたためしがない。
 ウォレンの手伝いで随分とくたびれてしまったが、暇な事の多い部署だからむしろ心地良くすら思う。こんな時に、何か新たな案件でも入って来ないだろうか。そんな事を思っていると、まるで示し合わせたかのように、ドアがノックされた。
「失礼します。こちらが、あの特務監査室で間違いありませんね?」
「はい、そうです」
 やって来たのは、随分と固い印象のある話し方をする中年の男だった。真面目というよりは堅物といった雰囲気で、特務監査室の事も詳しく知ってはいるが本心では半分疑念を抱いているといった様子である。
「私は国家安全局のダスティンと申します。先日はこちらの不手際で御迷惑をおかけしました」
「いえ、とんでもありません。さあ、こちらへどうぞ」
 エリックはダスティンを奥にある応接スペースへ案内する。
 これまでも国家安全局とは時折仕事で関わる事はあったが、このダスティンという男とは初対面だった。彼の様子からすると、彼もまたこれまで特務監査室とは関わりを持っていなかったのだろう。ただし、物珍しいというよりも何やら胡散臭げな表情で室内を見ている。そんな彼の姿に、ここへ配属されたばかりの頃の自分を思い出してしまった。
「ただいま。今日はちょっと早く戻れたわよ」
 ダスティンを応接スペースへ通した直後、普段は戻りの遅い室長が丁度良く戻って来た。ダスティンは室長とは面識があるのか、彼女の姿を見るなりすかさず立ち上がって一礼する。
「あら、ダスティンさん。もしかして、例の件ですか?」
「はい。この件の検証は、特務監査室向きだと上からの通達でして」
 この件。特務監査室を指名するという事は要するに、とても表沙汰には出来ないような不可解な現象を伴った事件という事だ。しかし、国家安全局のような部署ですら特務監査室へ投げざるを得ない案件などあるものなのだろうか。エリックには、今一つ素直に受け入れられなかった。
「お、何か面白え事でもあったのか?」
「最近暇でしたからねー。面白い事件なら、やる気出しちゃおうかな」
 ダスティンの言に、ウォレンとルーシーがまるで野次馬のような当事者意識のない言葉を放って寄って来る。その態度にダスティンは露骨に不快感を表情に浮かべて見せるが、室長の手前か軽く咳払いをする程度に押さえた。そしてエリックは、そんなダスティンに対して申し訳ない気持ちになる。
「事件は、一昨日の早朝になります。聖都中央刑務所から、一人の囚人が脱獄しました。中央刑務所は御存知の通り、このセディアランド国内において最も堅牢で厳重な刑務所です。そのセキュリティの固さは世界でもトップクラスと言えるでしょう。ですが、この囚人はそれを難なく突破したのです」
「脱獄ねえ。そいつ、何やったんだ? 中央刑務所って事は、それなりに有名人だろ」
「囚人の名前はヨハネス。一昨年前に、巨額の詐欺事件で逮捕起訴された男です。本件は、被害者側に少々表沙汰には出来ない人物も少なくないため、事件そのものは公表されておりません」
 聖都中央刑務所は、主に政治犯やそれに類する重犯罪者が収監される場所だ。単なる凶悪犯ではなく、社会的な影響力などを持った犯罪者などが主に扱われるため、収監されている人物すら極秘となっている。社会に悪影響を及ぼす前に死刑にしたいが、そこまでの厳罰は不可能。そういった厄介者の集められる場所だ。
「なかなかの大物じゃないですか。なのにすんなり脱獄されるなんて、刑務官は何を遊んでたんです?」
「それは断じてありません。中央刑務所へ配属される人間は皆、厳しい審査に掛けられて残った真面目で有能な人物ばかりです。彼らの怠慢による脱獄など絶対にあり得ません」
「つっても、実際脱獄されたんだろ? そこんとこどうなのさ」
「我々は勿論、その可能性も考慮し、本日まで担当刑務官を徹底的に調査しました。その上で、彼らには何の落ち度も無かったと判断したのです」
「じゃあ、設備の不備は?」
「無論、調査済みです。刑務所内を隈無く調べた上で、抜け道は一切存在しない事を確認済みです」
 そこまで徹底的に確認したのであれば、現に脱獄したヨハネスはどのような手段を用いたのだろうか。エリックにはまるで想像もつかなった。ただ、この奇妙な現象は確かに特務監査室向きの事件だと、そんな印象を受けた。
 そこまで静かに話を聞いていた室長は、そこで徐に口を開いた。
「もしかすると……予知能力者かも知れませんね」
「予知能力、ですか。それは、これから起こる出来事が分かるという」
「ええ、その通りです。本件は我々にお任せ下さい。予知能力者でしたら、過去にも何度か受けた例がありますから」
 そう笑顔で答える室長だったが、ダスティンは困惑の色を隠せない表情をしていた。無理もないだろう、とエリックは思う。自分もまた、そんな便利な能力など存在するはずがないと考えているからだ。