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 独房や食堂に作業場などヨハネスの生活圏を一通り回った後、エリック達はスコットに刑務官達の執務室へ通された。そこは特務監査室とは違い、見渡すほどの広さを持つ空間だった。各人の机が幾何学的にきちんと並べられ、それらの間には敷居が一切存在しない。おそらく、誰が何処に居るのかをはっきりとさせるためなのだろう。複数の部屋に分けるのではなく、全ての役職者を同じ部屋にまとめているのもそのために違いない。
 三人は一番奥の窓際にあるスコットのデスクスペースへと通される。スコットは警備主任というだけあって、自分の執務用デスクの他に、打ち合わせと来客対応を兼任する応接スペースを持っていた。そこに着いた三人の前へスコットは、大きな一枚紙を広げて見せる。それは、この刑務所全体の詳細な見取り図だった。
「こちらが、この建物の見取り図になります。これには一般的な通路の他にも、緊急用の非常出口や上下水路に空気孔まで網羅しています」
「でもそりゃ、設計的な話だろ? 実情が則してるとは限らねえよな。こっそり通路作ってる奴だって居るだろ」
「無論、その可能性も考慮しています。現在、週に一度のペースで一斉点検を行っています。当然、不審な点が見つかれば即日補修を実施します。ですからこの見取り図は、極めて実情に近い内容となっています」
 つまり、隠し通路の類は一切存在しないという事だ。そのため彼らは、ヨハネスの逃走経路について堂々と正面突破したとしか答えられないのだ。
「刑務官にミスは無い。ましてや買収などは論外。建物に欠陥は一切無し。となると、針の穴を通るような可能性で刑務官達の目を盗んで脱獄した、それが結論となる訳か」
「我々も、ありとあらゆる可能性を考慮し、徹底的に調査をしています。その結果、こちらには何の瑕疵もありませんでした。となると、信じ難い事ではありますが、そうとしか言いようがないのです」
 状況は分かった。ならば、本当にそんな事が出来るのか、次の問題はそこになってくる。これは再発防止のためにも非常に重要な事なのだ。
「それで、奴が逃げたと思われるルートの検証はしたんだろ? 刑務官用通路に辿り着くまでの道順とかをさ」
「はい。幾つかのパターンで何度か繰り返し行いました。結果として、確率的には全くのゼロではない事が判明しています」
「その確率的って言い方さ、なんかはっきりしねえよな。脱獄囚がその道のプロなら、確実な方法があったからそれを実行してやったんじゃねえのか?」
「確実な方法はありません。それは何度も念入りに確認しました。確率的と表現したのは、普通では見切れないようなタイミングと言いますか、ほとんど不確定的な要素が絡んだ上でのケースという事です」
「具体的には?」
「通路の見張りにしても、二十四時間目を離さない訳ではありません。瞬きをしたり、くしゃみをしたり、はたまた何かの物音で一旦視線を外したり。無論、普通はそんな僅かな隙を突くなんて不可能ですが」
 確かに、どんなに真面目な人間であろうとも、長時間に渡って一点を見張り続けるのは不可能だ。それは性格の問題ではなく、人間の構造的な問題である。瞬きやくしゃみなどの生理現象を止めるのは不可能であり、気晴らし程度に僅かに視線を外す事など誰にでもある。ただし、そんないつ起こるか分からない僅かな隙など、予めタイミングを知ってでもいない限りは付け入るのは不可能だ。そこで今回の大前提にある、囚人ヨハネスは予知能力者である、という事が絡んでくる。
 予知能力とは、これから起こる物事を予め知る事が出来る能力の事だ。それは推測とは違って、知識や情報から推し量れるはずのないイレギュラーな事でさえも知る事の出来る能力だ。だから、人間が目を押さえたり視線を外したりする推測しようのないタイミングも正確に知ることが可能なのである。
「じゃあ、もう決まりじゃないですか。普通では有り得ない事は検証済みなんです、予知能力者に間違いないですよ」
 あっけらかんと予知能力を口にするルーシー。すると、予想はしていたが、スコットの表情に僅かだが怪訝の色が浮かんだ。普通では有り得ない出来事が起こってしまった事は理解出来ているのだが、予知能力なんて馬鹿げたもののせいにするつもりはない。そんな本音が見える。
 ヨハネスは予知能力者であり、自分にとって都合の良い出来事を拾い上げる事でまんまと脱獄に成功した。仮にそれが結論だとする。するとそこで、また一つの疑問が浮かび上がった。
「仮に予知能力者だったとして。じゃあ、どうしてヨハネスは逮捕されたんでしょうか? 先々の事が予め分かるなら、警察に不意打ちで踏み込まれようが、うまく逃げられるんじゃないですか?」
 そう、ヨハネスは警察に逮捕された後にここへ収監されたのだ。未来が分かる予知能力者なら、それは回避出来たはずの事なのだ。
「たまたま調子悪かったんじゃねーの? 風邪でもひいてさ」
「それは、未来の自分の体調不良を予知出来なかったという事ですか?」
「いちいちそこまで予知なんかしないんだろ。お前だって、逐一自分の家が火事になったらなんて考えるか?」
 考えない。そこまで自分は心配性ではない。
 となると、予知能力とは楽観的な人間ではあまり有効に活用出来ないのだろうか。そう考えると、たちまち予知能力というものが余計に胡散臭く思えてくる。存在そのものが訝しいというのに、その日の体調や個人の性格で能力が左右されるなんて、純粋な偶然の出来事とどう違うのだろうか。