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「ねえ、エリック君。この間、あのブラックナイトに行ったんだって?」
 その朝は、珍しくルーシーの方がエリックより先に執務室にいた。しかし振る舞いはいつもの通りで、机の上には途中で買ってきたらしき朝食が並べられている。
「ええ、そうですよ。とても良かったです。当然ですけど、まったくタネは分かりませんでした」
「セディアランド人は、相変わらず変な楽しみ方しますねえ。もっと夢のある見方をすればいいのに。ま、評判通りなら安心です。ほら、私も今度行くのよー」
 そう言ってルーシーは、誇らしげにチケットをひらつかせた。
「ルーシーさんも手に入れたんですね、チケット」
「本当に苦労したんだから。ただでさえ手に入らないのに、偽物も沢山出回ってるのよね。その判別だけでも一苦労だっての」
 新進気鋭のマジシャン、セドリックの公演の人気は今や天井知らずといった様相である。街中でブラックナイトの事を知らない者は皆無と言っていいほどで、誰もが一度は観てみたいとチケットを探し求めている。そのせいで、それに絡んだ詐欺事件も多発しており、当局は日夜対応に追われているそうだ。
 先日に観賞したブラックナイトは、これまでに見て来たあらゆるマジックショーの中でも最も素晴らしいと言える内容だった。大掛かりな舞台装置を駆使した、一見すると見栄えばかり重視したように思えるマジックが気が付かない内に予想もしなかった展開となっていくため、一瞬たりとも気が抜けない。それだけ注意しているにもかかわらず、何故か舞台上では有り得ない出来事ばかりが次々と起こる。しかも、一昔前まで主流だった、照明の明暗を利用した目の錯覚は一切使っていない。舞台上は全て隈無く明るく照らされていて、どう見てもタネを仕込む余地など無いのだ。そこが、このブラックナイトの人気の秘密と言えるだろう。
「それにしても、あれだけ完璧にやられてしまうと、本当にああいう魔術が使えるんじゃないかって思ってしまいますね。子供の頃に見た奴なんかは、もっとチープでタネも分かりやすかったのに」
「本当に本物がいるとかいないとか、実際あるらしいですよー。ま、同業者間でもタネを明かすような事はしないし、そういう振り込みで売り出すのは普通ですからねー」
「ルーシーさんは、本物がいるかどうか知らないんですか?」
「私は知らないなー。普通、あれだけの事が本当に出来るなら、もっと悪い事に使うはずだし。お金とか、人殺しとか。マジシャンでお金稼ぎなんて、苦労の割に見合わないでしょ」
「ああ、確かに。よほど思い入れでもない限り、普通はそういう事に使いますよね」
 エリックは魔法使いなんてものが本当にいるとは微塵も思っていない。舞台上のマジシャンが引き起こす現象も、全て科学的なタネや繊細な技術を駆使したものであると認識している。ただ素人ではその仕組みが分からないからこそ、マジシャンの舞台は観に行く価値があるのだ。仮に本当に魔法が使えるマジシャンがいたとしても、おそらくほとんどのセディアランド人は、その舞台を観に行くような事はしないだろう。理解出来ないが確かにタネは存在するからこそ観る価値があるのであって、タネが存在しない舞台など無価値なのだ。
 そんな雑談もそこそこに、エリックは普段通りの業務へ入る。室長は本庁にいるため不在、ルーシーは普段通り雑誌を読んでいる。かと言ってエリックは周りに流される事はせず、粛々と仕事をこなしていく。周りが緩んでいれば緩んでいるほど、自分はこうなるまいという気持ちが溢れてくるせいだ。
 今日はウォレンが未だ登庁して来ていなかった。それに気付いたのは、エリックがルーシーにコーヒーを要求された時の事だった。遅刻はいつもの事だが、ここまで遅れて来るのは非常に珍しい。だが、過去に例が無い訳でもなく、エリックはあまり気に留めなかった。
 そんなウォレンがようやく執務室へ現れたのは、間もなく時刻が正午になろうかという時間だった。
「おはようごさいます。随分遅いですね」
「ああ、ちょっとな」
 ウォレンは妙に大人しくか細い声で答える。そのまま黙々と自分でコーヒーを淹れると、自席についてじっと腕組みをする。口数が少ないばかりか、視点の焦点が今一つ怪しい。その様にエリックは、これは二日酔いだろうと察した。
「おお、そうだ。午後から外に出るぞ」
「何ですか、急に。仕事ですか?」
「ああ。ほら、前にお前が言ってたよな。なんとかナイトって。あの絡みだ」
 調子が悪いせいか、やたら憂鬱そうに話すウォレン。そんな様子にもルーシーは、まるでお構いなく普段の調子で食いついてきた。
「それってもしかして、ブラックナイトの事です?」
「そうだ。あのマジシャンの……ああ、セドリックだったな。そいつ絡みでちょっとな」
「あ、分かった! もしかして、公演を中止しないと、みたいな脅迫があったんでしょ! 今一番人気ですからねえ、そういう妬み嫉みもありますよ」
「それだったらまだ楽だし、俺達の仕事でもないんだがな」
「では、うちらに回ってきたという事は、何かこう表沙汰に出来ないような事が?」
「そういう事だ」
 気怠げに答え、コーヒーを一口すするウォレン。普段は明るく快活としているだけに、今の姿はまるで病人のように弱々しく感じた。
「一昨日の公演でな、そのセドリックが殺人予告をしやがったんだよ。報道規制は敷かれているが、噂で広がるのも時間の問題だ」
「殺人予告、ですか? それはつまり、セドリックが自分で誰かを殺すという意味で?」
「そうだ。マジシャンの言う事をさっ引いても、まああまり誉められたジョークでもねえ。ところがだ。その名指しされた奴が、今朝になって実際に変死体で見つかったんだ」
 変死。その言葉に、エリックは思わず息を飲む。それはつまり、状況からすると他殺という結論を保留しているという意味だからだ。
「変死体……実際に予告通りに殺したって事ですか?」
「そうだ。それで問題なのは、ガイシャが死んだのは昨夜の公演の最中らしいんだ。今殺人課が共犯者の線で捜査しているが、万が一の事もあるってな。うちに話が来たんだ」
 万が一の事。それはつまり、セドリックが何か超常的な力を持って遠隔殺人を行ったという可能性だ。