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 夜の研究所は、当初イメージしていたよりもずっと人気が薄く、不気味なほど静かだった。研究所というものは、真夜中でも多くの研究員が残って実験をしている。そんなイメージがあったのだが、実際はほとんどの研究員は定時を過ぎれば帰宅してしまうようだ。
 エリックは、薄暗い廊下の足元に気をつけつつ、部屋を順番に巡回していく。
 あの研究員ハリーの紹介を使い、特務監査室の三人は夜間警備員として件の研究所へ潜入をしていた。常駐する人数は二名のため、三名中二名がローテーションで勤める事にし、今夜はエリックとルーシーの番となっている。もっとも、ルーシーはウォルター博士の研究室に張り付いていて、巡回業務自体はエリックのみが行っている。巡回業務マニュアルには、基本的には全ての部屋を回るようにとは指示されているが、研究室のほとんどは機密保持のために施錠されている事が多い。また、ウォルター博士を初めとする一部の研究室は、たとえ在室中でも中へ入ってはならない事になっている。そのためウォルター博士の動向を探るには、こうして扉の前にどちらかが張り付いて中の動向を窺うしか手立てが無いのだ。
 エリックは、あらかじめ渡されていた警備マニュアルに沿って丁寧に巡回を行っていった。万が一不法侵入の事態に出会したりしないだろうか、という不安もあったが、それよりも一人のルーシーがきちんと見張っているかどうかの不安の方が大きかった。本来なら先輩が後輩を監督するものだが、特務監査室では往々にして先輩がだらしない事の方が多い。ルーシーが飽きて本来の身分か露見するような真似をしていないか、予測出来るのはそういった事態だ。
 小一時間程かけて巡回業務を終わらせると、エリックはウォルター博士の研究室へと向かった。ルーシーは研究室前の扉で、どこからか運んで来たらしい椅子に座っていた。警備員の制服を着ているため一瞬は夜間警備か何かのように見えるが、だらしなく放り出した両足がすぐにその説を覆してしまう。
「おそーい。ちゃっちゃとやりなさいよ」
「随分じゃないですか、それ。本来二人で回るところを一人で回ったんですから、これくらいかかるのが普通ですよ」
「ふーん。で、他に誰かいた?」
「仮眠室で熟睡している人が三名、東館には二名いましたけど、うちが近所なのでこれから帰宅するそうです。後はハリーさんだけです。何かあったらすぐ呼んで下さい、と言っていました」
「そっか。じゃあ、別に気を抜いてもいいよね」
 そう言うなり、ルーシーは帽子を脱ぎネクタイを解いてしまった。それだけで、たちまち警備員ではない姿に見えてしまう。
「……まあ、いいですけど。ところで、こっちはどうなんですか? 何か変わった事はありました?」
「全然。ほら、ここ鍵穴あるでしょ? 中が覗けるんだけど、ずっと机に向きっ放しなのよねえ」
 エリックは床に膝をついて鍵穴を覗き込んでみた。すると確かにウォルター博士が机に向かっている背中側が確認出来た。何やら一心不乱に書き続けているのは分かるが、肝心の妖精が居る所は見えない。
「あのハリーって人、博士が妖精と話してたって言ってたじゃない。それってつまり、この鍵穴から覗いて分かるくらいはっきりしてたって事なのよ。だから、こうやってひたすら見張るしかないよね」
「まあ、そういう事ですよね。何だか長い会話をしていたんでしたっけ?」
「そうらしいよねー。その内、なんか独り言始めるんじゃない? 始まったら起こして」
 ルーシーは椅子に座って腕組み足組みをし、そのまま眠りに入ってしまった。エリックとて慣れない徹夜で眠いのだが、こうも堂々と側で眠られると怒りよりも呆れの方が先行してくる。
 もう、あまり考えないようにしよう。そう自らを落ち着け、鍵穴越しの監視を続ける。
 鍵穴越しに見るウォルター博士は、とにかくひたすら書き続けていた。インク壷へペン先を浸ける以外は、字を書く作業しかしていないと言っていいだろう。初めこそそれは、非常に熱心な研究者の姿だと思っていた。しかし、あまりに同じ姿が続くため、次第にそれが異常な姿に思えるようになった。普通なら、多かれ少なかれ考え込む仕草や時間を取るはずなのだ。単なる模写ですら、写し損じていないか見直す事をする。そんな仕草が一切無くひたすら書き続けられるのは、どう考えても異常だ。妖精云々の下りの信憑性はさておき、この光景を見たハリーが異常さを感じ危惧するのは頷ける話である。
 なら、特務監査室としてするべき事は何か。エリックは次のアクションについて考えを巡らせ始めた。けれど、まるで案らしい案が浮かんでは来なかった。それらしいものが浮かんでも、精度や正当性などを考えようにも考える事が出来ず、意見として仕上げられないのだ。
 駄目だ。ここのところ生活リズムが狂ってきているから、いまいち思考が定まらない。頭が思うように動かず、集中が出来ないのだ。
 エリックは目頭を押さえ、目の凝りをほぐし集中力の回復を図る。けれど疲労感はそんな段階ではないらしく、余計に休みたい欲求が膨らむ。こんな事ではいけない、と自らを叱咤するものの、やはり自然の摂理には勝てなかった。気持ちばかりがどんどん休息の方へと向かってしまう。
「……あれ?」
 そんな時だった。ふとエリックは鍵穴越しに、ウォルター博士の肩に妙な影がちらついたような気がして目をこすった。何かの見間違いかも知れない。そう思い、再度目を凝らして肩を見張る。するとやはり、はっきりとは見えないが確実に何かがちらついたように見える。
 一体何が自分には見えているのか。
 エリックは慌てて眠りこけているルーシーを揺さぶり起こした。